―――あの、赤く染まっていく紙の色を、私は覚えている。


 今日も理科準備室で、ひとり、アルコールランプを灯している。
 消えることのない火は、時間間隔を麻痺させ、静かに、静かにその場を照らしている。
 まるで、私がここにいることを誰かに知らせるように。
 気づいて、と。
 早く来て、と。
 自身を燃やしながら、その役目を終えるのを待っている。
 火を見ながら、私は思わず笑みを浮かべてしまう。
「……今まではそんなこと、考えもしなかったのに」
 この理科準備室は雑踏が嫌いだった私の唯一の逃げ場だった。
 特に放課後になると、学校中から人がいなくなるまでこうしてアルコールランプを眺めていた。
 時間を無駄に過ごすために。
 でも、『彼』がそれを壊した。
 どこにでも居そうな、大して目立った行動をとることもない、私より頭が良いとは思えない男は―――私を一人の人間として対峙したのだ。
 クラスでも浮いているこの私を。
 学校中から奇異の目で見られている私を。
 一人の人間として、心配して、笑って、優しく、私の要望を包んでくれた。
 今にして思うとあの実験――キスを無理やりしたのは自分でも恥ずかしい部分がある。
 彼などは「あれは僕のファーストキスだったんだぞ」と、まるで似合わないロマンティックなことを述べるくらいだ。「私もよ」と答えたときの彼の顔はなんとも言えなかったけれど。
 それほどに私たちのなかでは、あの出会いとあの出来事は衝撃的なものになったのだ。
 私は自分のことを変わっていないと思う。
 でも、彼は私のことを変わったという。
 どちらが正しいか、間違っているかはわからない。雑誌で簡単に載ってしまうほど、人間の心というものは安易に出来ていないのだ。
 ああ。でも。

 ―――― どうして人は恋をするんだろうね?
 ―――― 一人じゃ寂しいからじゃないかしら?

 あのやり取りだけは、正しい気がする。


 ふと、理科準備室の扉が開かれた。
 どうやらうっかり眠ってしまっていたらしい。まだ浅い眠りだったからか、音で目を覚ますことが出来た。
 別にだからといって、慌てているわけではない。ここに来るのは化学を主に授業をしている先生か、あるいは
「二見さん、いる?」
 一人だけでは寂しくさせてしまう『彼』しか来ないのだから。
「相原」
 だから、呼ぶ。
 気づいて、と。
 早く来て、と。
 早く来ないと、本当に寂しくなってしまう。
 そして、彼の姿を見た暁には
「あ、良かった。ここにいてくれて」
「ふふ。ここにいなかったら、貴方は見つけてくれないでしょ?」
 私はそっと、アルコールランプの灯を消す。



「二見さんは、理科の実験で何か思い出深いものってある?」
「突然ね」
「いや……仮にも理科準備室にいるなら、自然な流れの会話だと思ったんだけど」
 渋い顔をしつつ、ビーカーに入れたコーヒーを口に含む。彼も最初は訝しみながら飲んでいたが、今では慣れたようにビーカーに手をつけている。
「そういう相原は何かあるのかしら?」
「そうだね。硫黄の臭いに耐えられなかったのは記憶があるよ。鼻が曲がるっていうのをそのとき実感したね」
「直に嗅いだりするからよ」
「……なんで僕の行動がわかるかなぁ」
「わかるわよ」
 貴方が私のことを理解しているように。
 私も貴方のことを理解できるようになった。
 ただ、それだけのこと。
「そうね。私が印象に残っているのは―――リトマス試験紙かしら」
「リトマス試験紙って、あの酸性とアルカリ性を判断できる紙?」
「ええ、アゾリトミンと呼ばれる酸性の赤色色素が主な成分のアレね。これが反応して、変色をする。詳しく言うと赤色リトマス紙はpH8.0のアルカリ性の液を滴下すると、青く変色。青色リトマス紙はpH5.0の酸性の液を滴下すると、赤く変色する。最初にあの変色を見たときはかなり驚いたわ」
「あれって、中学生の頃の理科だっけ?」
「そうね。でも、私は小学3年生のときにはそれを熟知していたわ。pHもね」

 名高い私立小学校に入学した際、私は特別に実験室を使用することが出来た。もちろん、危険な劇薬もあるので担当教師の監視の下だったけれど。
 それでも私はあの当時、驚きに素直だったと思う。
 リトマス試験紙を初めて用いて、青色だったものが赤色へ、赤色だったものが青色へ変色していく様子は驚愕したり、感動もした。
 特に青色から赤色へ染まっていく紙は強く私の心に残っている。
 まるで、夜明けのようで。暗い夜にぼんやり浮かぶ月のようで。明るく、強く、その結果を示している。

「そういう意味では、相原、貴方は酸性の液だったのかもしれないわね」
「え? 何か言った?」
 肝心なところだけ聞いていない、調子のいい彼に、私は笑みを送る。
 彼には意味深に映ったようで、軽く身を構えている。だけど、そんなことは関係ない。
 ちゃんと聞いていなかった罰。
「相原。実験するわよ」
「……素直にキスしたいって言えばいいのに」
「……相原、恥ずかしい、はやくきて」
「なんでそんなことをまだ覚えているかなぁ!」


 私はこの世界の中で暗く、喜びもない、孤独な世界を生きていた。例えるなら青。
 心の中も寒く、他人のこともそれほど気にとめてはいなかった。例えるなら青。
 それを、相原光一、貴方はたった一人で私の色を変えてくれた。
 あの酸っぱい出来事で、あの酸っぱいやり取りで。
 私は貴方と二人で歩いていける世界へと道を見つけた。例えるなら赤。
 貴方の傍にいると、心の中が温かくなり、顔も熱くなる。例えるなら赤。
 そう、まるで青色リトマス紙が赤色になっていくように。




 ―――あの、赤く染まっていく紙の色を、私は覚えている。







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