アーカムシティ。

 ミスカトニック大学があることで有名。
 そこで学ぶ者の大半は政治家、研究家、資産家のあらゆるトップに立つケースが多い。
 それを公表する者もいればしない者もいる。
 だが大学側は一切それに関与したりはしない。無理に学生を増やそうとも思わない。
 その大学方針が気に入ってミスカトニックに入学する者は後を絶たない。
 アーカムシティは摩天楼が聳え立ち、近辺の都市とは比べ物にならないくらい近代化が進んだ都市である。
 夜も明かりが絶えることなく人々がどれだけ裕福かをあらわしている都市。
 それとは逆にスラム街も立ち並びこの町は多種多様な人類が住む、云わばごった煮都市。
 そのごった煮都市は、いつしかこのアーカムシティにはこんな悪名にも似た言葉がつけられる。


 『大黄金都市にして大混乱都市にして大暗黒都市』


 そんな都市の一角に、探偵事務所がある。
 寂れた、どちらかと云えばスラム側に近い位置にそれはあった。
 だがそれは探偵事務所という敷地にはいい場所であろう。
 誰の視線も大して浴びることなく入ることが出来る。
 追い剥ぎに狙われなければ、などの注意事項はつくが。
 無事着いた暁には、階段がある。そこを上がって3階へ。
 するともうそこが探偵事務所だ。
 探偵事務所というにはいささか頼りない感じもするが、それは的を射ている。
 直球ストライク、ド真ん中っ。
 そう、ここには一見本当に頼りなさそうな男が探偵を勤めているのだ。
 なんでこんな男が探偵をしているのだろうか、と誰もが一度は思ってしまう青年。
 だが侮ってはいけない。
 彼に依頼すれば必ず最後まで面倒を見てくれるし、それなりのアフターケアーも万全。
 少し依頼料が割高だが、それに見合う働きはしてくれる。
 下は草むしりから上は行方不明の猫捜しまで。
 ちなみに上記は今までの依頼の下限から上限である。
 ともかく、お金のためならエンヤコラの探偵事務所。


 それが、『大十字探偵事務所』である。












「あー! おかねがーほすぃー! ゆめとかきぼうとかいらないかぁらぁー!」
 音痴にも程がある歌声が部屋中を包む。
 しかも大声。更に本人に音痴の自覚がなく性質が悪い。
 作詞自分作曲自分の歌を高らかに歌い上げる青年は色褪せたソファに座り込んで天井を見上げている。
 その状態でよく声が出せるものだと思うが、本人は全く気にしていない様子。
 というより気にするほどの体力がない。
 だがそれでも彼は愚痴を含めた歌を歌い続ける。体力を更に減らすために。
「あー! おなかがすいたぁー! くさでもほねでももってこぉいー!」
「汝はいつから犬に成り下がった」
 ソファの前をじと目で見てくる少女が通る。
 歩くたびに後ろに束ねた紫の髪が、それほど上下運動をしていないのにも関わらずやけに跳ねるのが面白い。
 両腕には何か資料らしきものを抱えていて、青年とは逆に大変そうである。
「だってよー、アル。こう仕事がなけりゃ藁をも縋る気持ちになるんだよ、むしろ藁でもいいから食いたい」
 よっ、と掛け声をあげて体を起こす。
 体が重いのを感じながら、テーブルに置いてある今日配達された牛乳ビンを手に取る。
 この牛乳だって大切な水分である。
 水道水を飲もうものならば毒が入っていて倒れるといったケースがたびたび起こる。
 だからこのアーカムシティでは水道水を使う場合、必ず煮沸消毒をする必要がある。義務にも似てる。
 そんな不憫な都市にも関わらず、人口は増える一方だというのだから世界はわからない。
 牛乳は牛から採られているので、その牛に問題がない限り安全な飲み物だ。
 いちいち煮沸せずに飲める大切な水分。それが宅配牛乳。ビバ、文明開化。
 そんなことを考えてしまうほど、ここは金銭難。あわせて食料難なのだ。
 アルと呼ばれた少女は、そんな堕落した青年の姿に深く溜息をつく。
「だから世に広めるために少しばかり宣伝してはどうかと進言したではないか。それを汝は―――」
 そしてまた溜息。
「『宣伝なんぞしたら俺が探偵だってことがバレちまうじゃねぇか。大十字なんて苗字、このアーカムシティでは多くないんだぞ』などと言うから」
 腕の荷物を近くの机に置いて、ポニーテールを弾ませて青年に振り返る。
 その顔はその幼顔に相応しいくらいに、頬を膨らませている。
 それに対して青年は牛乳ビンを置いて、逆に少女を睨む。
「当たり前だろ。こんなクソ暑い中宣伝なんてしてられるか」
 ―――――――。
「……それが本音か」
「これが建前に聞こえるのか」
「一片足りともな」
 少女の返答は最初は間があったのに、今度は即答だった。
 まるで息があったかのような言葉の掛け合い。
 このまま青年がボケ続ければ少女は必ずツッコんでくれるだろう。
 多分。
「汗水かかずに仕事がもらえるか。汝は苦労せずに依頼を得るつもりか?」
 今日何度目かになる溜息をつく。このままだと溜息だけで死にそうだ。
 少女は積み重なった紙の束から一番上を取って見てみる。
 それは今月の決算表なのだが、見事に赤一色だった。
 文字は赤に。折れ線グラフは下降、いや先月から同じ位置を辿っている。
 つまり、この探偵事務所は確たる収入を得ていないということになる。
 段々頭が痛くなってきた。
 だが青年は全く気にしないようで、突然笑い出す。
「九郎だけに、苦労しないということ」
「―――親父ギャグだな」
 元々ウケさせるつもりはなかったらしく、青年は少女の冷めた反応を確認すると笑いを止める。
 少女は呆れながら向き直って、荷物をまた持ち上げる。
 そこで、まぁ、と声が聞こえてきた。
「探偵は大人しく事件を待つ。それが俺、大十字九郎のやり方さ」
 青年はふんぞり返るようにしてソファに深く座り込む。
 手を組んで足を組む。それだけで絵になるような彼の姿、格好良さ。
 本当にどうしてそんな青年が探偵なんかしているのか不思議でならない。
 運命とは正に面白い。
 そこで、まぁ、と声が出される。
「そのような態度をとられたら助手である妾、アル・アジフも従うほかあるまいて」
 少女はふっと笑って青年を見ぬようにして歩き出す。
 どう見ても10代半ばにしか見えない少女が彼の助手をしているのか。
 何も苦もなく、日常茶飯事のように過ごしているのか。
 それには理由があるのか。
 どうやら大十字九郎とアル・アジフは相反しているようで、実は一番近いのだろう。
「それではシスターにでも頼んで飯でも作ってもらわねばな、ツケが溜まるが仕方があるまい」
「うぃー。頼んだ」
 荷物を先程の場所から少し離れた別の机に置く。
 決して疲れたわけではなく、そこが目的地であり彼女のワークデスクである。
 ワークデスクと言ってもそんな立派なものではない。そこにあるのは先程置いた紙の束を除けば左程目に付くようなものはない。
 暇潰しにと置いた漫画や可愛げのない、マンドラゴラの如く叫びそうなぬいぐるみが目に付くといえば付くか。
 ちなみに時間になると叫びます、これ。
 割と重かったらしく、軽く肩を回しながら積み上げた紙の束を見る。
 アルは思わず嘆息しかけたが抑える。
「にしても、そんなに出てきたか」
 逆に九郎は嘆息してしまう。
「うむ。重労働したかいがあった。別名、こき使われた、とでも言うべきか」
「なんかすんげぇ嫌味を言われた気がしましてよ、俺様」
 しかめ面する九郎を他所に、アルは真剣に一枚一枚見ていく。
 そんな扱いをされては黙っていられず、重い体を立ち上がらせてアルのところへ歩み寄る。
 何の意味もないが、事務的にワイシャツを着てネクタイを素早く締める。
 それだけであくまで気分が引き締まった感じがする。あくまで気分。
「最近『黒き聖域』の行動が活発化しているのは否めない現実。自警団にでも任せればいいのだが、残念ながら奴らには物理攻撃は効かない」
 ペラペラと捲っていくアルの姿は助手のようでも秘書のようでもあった。
 見た目10代半ばとは全く思えない仕事の効率力である。
 だがその顔はしかめ面。赤字決算している時よりも険しい顔だ。
「"効かない"じゃなくて"効かないようにする"んだろ?」
 その言葉にアルは頷く。

 『黒き聖域』。
 3年前辺りから見え隠れしている謎の集団。
 何の目的があってか、アーカムシティが中心となって活動している。
 誘拐・強盗・強姦・殺人・殺人未遂・暴行その他諸々の事件が彼らによって行われている。
 何故それが彼らのものとわかるのかというと、これまた奇妙で事前に犯罪予告を出してくるのだ。
 強盗・殺人などは理解出来る。しかし他に至って犯罪予告する必要はあるのか。
 ご丁寧に達筆な筆で『犯罪予告状』と自警団に届けられる。もちろん切手なし。
 そしてそれを実行した暁には、これまたご丁寧に『見参!』と紙を残してくれる。
 実に奇妙な、謎の集団なのである。
 しかも何の因果か、九郎が探偵業を始めたのもちょうどその時期であった。
 それ以降、九郎とこの集団は切っても切れない関係にある―――と、九郎は断言している。
 だがそのお陰で大十字探偵事務所は自警団も知りえない情報を幾つか所持している。
 例えば彼らが魔術なるものを使うということだ。
 そんな非現実・非論理的なものなど一般大衆が信じるわけがない。
 しかしそれは本当にある。
 魔術。魔の術。
 今まで起きた殺人は普通では考えられない手口で実行してみせたのだ。
 普通では考えられないというのはここでは実際にはありえないと言い換えるといいだろう。
 頭を内部から爆発させて殺す。下の穴から上の穴へ貫通させて殺す。ありえない方向に体を曲げられて殺す。
 体の水分を抜いて殺す。切断面が綺麗な肉片を作り上げて殺す。
 全てそれは『黒き聖域』がやった出来事である。
 そんな殺害方法を力持ち、狂ったというだけで出来るであろうか。

 アルはそんな殺害現場の資料を見ていた。
 自警団で極秘とされている現場資料なのだが、アルに任せればそんなものはどうってことない。
 九郎は毎回アルの情報収集力に驚かされ、その度に理由を訊くのだが彼女は黙秘を続けている。
 今回も訊こうと思っていたのだが、答えはわかっているので敢えて訊かないでいる。
「人の死はあっけないもの、とは言ったものだがこんな残虐な死に方ではあっけないとは言い難い」
 頬杖をついて、更に見ていく。
 九郎も出来るだけ情報を得るためにアルが見ていった資料を束ねて見ていっている。
 現場写真は載っていないがその場の状況が隈なく書かれているため、それほど困ることはない。
 コップに牛乳ビンの牛乳を半分ほど入れて、口に含む。もう半分はビンごとアルの机の上に。
「どうやら奴らの魔力は更に上がっているようだ。正確且つ素早く作業を行っている」
 アルは牛乳ビンを持ち、一気に飲み干す。
 口を服の袖で拭くと、また作業を開始する。
「今のところ、犯行声明は出ていない。油断は禁物と言ったところだが……安心しろ。妾に任せておけば汝に即連絡してくれる」
 そこで久しぶりに目があった。
 お互い笑ってそれに答える。
「頼もしいパートナーだよ、お前は」
「お褒めに預かり光栄だ、我が主」
 お互い片手を上に上げると、パシンッと軽快な音が部屋を包む。




「ところで、九郎」
 資料を6割方読み終えたところでアルが九郎を呼んだ。
 シャドウボクシングの真っ最中だった彼は、とりあえず息を吐く。
 ちなみに彼は元ボクシング部でもなんでもないので見様見真似である。
 だが、食糧難にお腹を減らす運動をするのはどうか。全く考えていないのが九郎だろう。
 どうせ後でアテが来るのだから。
「あ?」
 落ち着いたようで、九郎は肩に掛けたタオルで汗を拭きつつそちらを向く。
 彼の顔つきは見ない間に痩せこけたかと長年付き添ったアルでも思ってしまうくらい痩せていた。
 栄養のつくものを作ってもらわねばと思いつつ、彼女は九郎を見る。
「汝は、ロリコンなのか?」
 ―――――――。
 ――――――――。
 ―――――――――。
「あー、なんか不穏な単語が聞こえてきましてのことよ? アルさん、もう一度仰ってくださると有難い」
「汝はロリコンかと訊いたのだ、耳まで悪くなったのか」
 更に不穏な言葉が続いていたが、九郎はそれより先に問題を解決することにした。
 まずは呼吸を落ち着かせる。心拍数を抑える。
 ゆっくり先程の言葉の意味を理解していく。脳内辞典を開いて検索開始。
 ヒット。

 ロリコン
 略称
 ロリータコンプレックス
 幼女趣味

「……お前がどういう目で俺を見ていたのか、じっくりばっちり理解できた」
「そうか、それは何よりだ。で返答は」
「それよりなんでいきなりそんな質問に至ったのか俺が訊きたい」
 一時の間があって、アルは肩を落とした。
 自覚なしか、とトンデモナイことまで言い出す始末。
「汝、自分の今までの依頼と自分が置かれている環境を認識せよ。どう考えても九郎はおかしすぎる」
 そう言われて九郎は今まで受けた依頼を思い出す。
 『黒き聖域』に関する事件を除くと、受けた依頼は100を超えるか超えないか。
 どれもこれも三流探偵宜しく何でも屋扱い。終いには草むしりまで行う始末。
 九郎もさすがに3年前までは記憶がなく、アルに頼んで依頼分の契約書を持ってきてもらう。
 ちょうど隣の部屋が資料室になっていてそれなりの文献や資料が揃っているのだ。
 中には官能小説なんてものも混ざっているが彼女は黙認している。
 脚立を取り出してアルは残っている契約書を全て持ち出して九郎の前まで持ってくる。
 人遣いが荒いと思われるだろうが、アル自身苦にも思っていないので問題はなさそうだ。
「えっと……猫探し、依頼7歳女。ぬいぐるみ補修、依頼6歳女。宿題手伝い、依頼13歳女。草むしり、依頼23歳女―――」
「その23歳は童顔だったな」
 座って資料を見る九郎と一緒に覗き込むようにしてアルも見る。
 聞かないようにして彼は更に資料を読み続ける。
「留守番、依頼11歳女。……添い寝、依頼7歳女」
「あのときはすんごい嬉しそうにしてたな、汝」
 しかしスラム街にも似た環境にどうやって少女達が来たのか、まずそれが不思議だ。
 グサグサと胸に突き刺さるのをどうにか消し去ろうと資料を貪るように読み続ける。
 例外を探すために。自分の身の潔白を探すために。
「添い寝、ってまたか―――年齢不詳?」
「……あ、それは妾だ」
 極めつけ、このアル・アジフの存在だ。
 つまり彼女が言った九郎の環境というのは彼女自身のことを表しているのだ。
 アルの姿は一見すれば、いや一見しなくても10代半ば。
 顔は幼いし、体も華奢。手足も簡単に折れてしまいそうで怖い。
 胸はないに等しいし、背も九郎からすれば臍のあたりぐらいだろう。予測。
 だがしかし精神年齢はその年齢を上回るほど博識で、行動力が半端ではない。
 先程の情報収集力同様目を見張るところがある。前世は軍師か。
 不思議な少女。一言で言えばそれになるだろうが九郎は左程気にした風ではない。
 アル・アジフという少女がそこにいる、それだけで十分だ。
 それに不思議なんてこのアーカムシティではありふれたものだ。今更、ってこと。
「それでどうだ。妾のことを含めて自分で納得できたか?」
 あれから資料を漁ってみたものの、反撃の要素になるものが見つからず九郎は机にへばりつく。
 そこで実感する。俺って変態か。
 頭の中に今まで依頼してきた無垢なる少女たちが駆け巡る。やばい、イッちまってる。
 その謎の葛藤と対戦しつつ、降参の意を含めて両腕を挙げる。
「自覚、ないッス」
「末期症状ということだ」
 クリティカルヒット。
 ひでぇ、と声を上げるまでにアルは自分の机に戻り改めて作業を開始する。
 マイペース、ここに極まれり。
 頬杖を付いて、溜息をついてみる。
 自分のロリコン加減もそうだが、仕事のなさにだ。
 大見得きって『仕事を待つ』とは言ってみたが、こんなスラムの一角の寂れた探偵事務所に足を運ぶ奴がいるのやら。
 そんな立地条件の場に事務所を構えた自分も悪いのだが、後は地と成れ山と成れと考えていた自分が原因だ。
 そもそもなんで探偵なんて起業をしたのかといえば長くなる。
 一言で言えば「したかったから」なのだろうが、バックストーリーは数多くある。
 ともかく色んな理由で立ち上げた探偵事務所だが、結局は三流探偵。
 理由の一つ、推理小説に出てくる名探偵みたいになりたかったは悉く破壊された。
 ふと九郎は立ち上がって窓の近くに行く。
 それを怪訝そうにアルは見たが彼の顔を一瞥した後、作業を再開した。
「―――アーカムシティ、か」
 窓越しに覗く景色はいつもと変わらない。肌色の違う子供たちがコンクリートで出来た地面の上を駆けずり回っている。
 地に倒れた老人だっている。此処が何処かわからずにキョロキョロと辺りを見回している者もいる。
 泣いている者がいる。笑っている者がいる。怒っている者がいる。
 偽りを言っている者がいる。真実を述べている者がいる。偽善している者がいる。堕落している者がいる。
 自慢している者がいる。自己中心的な者がいる。精神不安定な者がいる。五体不満足な者がいる。
 男がいる。女がいる。子供がいる。老人がいる。若人がいる。死体がいる。生物がいる。
 ここはアーカムシティ。
 全ての色が織り交ざった都市。
 光と影が一度に味わえる都市。
 貧困と繁栄が同時に起こる都市。
 大黄金都市。
 大混乱都市。
 大暗黒都市。
 大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大
 都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都都
 市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市市死
「はぁ―――」
 なんて都市に自分はいるのだろう。
 自分で決めた道だがこれでは以前のほうが幾ばくかマシな生活だったに違いない。
 九郎は入り込んでくる情報を抑えるために頭を振る。
 だが入り込んでくる情報でも僅かな隙間がある。これは九郎の例えなのだが。
 それが彼にとっては、
「足りない」
 不足しているような、それを得なければならない感覚が体を伝う。
「何かが、足りない」
 自分では理解できない何かが。
 人間というものは何かを求めて生きていると誰かが言っていたが、今九郎はその真っ只中にいる。
 自分が何をするべきなのか、自分が今何が出来るのかと懸命に探している。
 それが探偵になった理由の一つ。
 その手がかりを探すために広く世界が見える探偵をし始めたのだが、結果は散々だ。
 アーカムシティが織り成す白と黒の世界を見ながら九郎は思考に耽った。
「…………九郎」
 アルが声を掛けるが彼に反応はない。
 彼は今世界を見ていて、今を見てないのだ。
 溜息をついて、アルは作業を再開する。あと3割。
 あと3割終わらせれば何かがわかるかもしれない。
 九郎の求めるものになるかはわからないが、しかし自分と九郎を繋ぐものは深くなるだろう。
 心の中で彼女は嗤った。
 繋ぐものなんて。自分は今まで幾人の繋ぎを切ってきた?
 今更深くしようなど、しようなど。
 無理。無理だ。
「なぁ、アル」
 アルがその声に反応して顔を向けると、先程と変わらない体勢で九郎は外を見ていた。
 喧騒と静寂が入り混じるアーカムシティを。
 人と人が出会い別れるアーカムシティを。
 そっと彼はその都市から目を離して、アルと目を合わせる。
「こんな世界に、こんな人の多い世界に―――」
 九郎の顔は真剣で、どこか悲しい。
 思わずその表情にどきりとさせられてしまう。
 笑っているようでも泣いている。その言葉が今の彼には合う。
 合わせられた視線をアルは逸らす。
 何故か合わし難かった。その瞳に含まれる闇に自分が吸い込まれそうだったからだ。
 自分を取り込んだ、あの瞳に。
 気持ちを察したのか知らないが九郎もアルから顔を逸らして、再び窓を見る。
「こんな人の多い世界に俺たちはちっぽけな存在なんだな。ただ時間の流転に身を任せて生きていくだけ。くだらない情に駆られて生きていくだけ。 俺が死んでもちっぽけな死。俺が死んでも新しい生が芽生える。いわば人の死は通過地点でしかない。人間の歴史から云えば人の死なんてただの点なんだ。 生きているのが線じゃない、これも点だ。点の積み重なりが歴史。俺たちはそんな歴史作りでの道具でしかないんだ」
 だから、と九郎は区切る。
 生は夢なんだ。
 死が現実なんだ。
 いつか誰か叫んだ言葉。
 アルは頭にそれが過ぎる。
 苦しく、なった。
 自分の存在が否定されているようで、今見ている誰かが本当はそこにはいなくて。
 自分が夢見ている人物をただ映し出しているだけで、その人はただの映像で。
 目の前にいる大十字九郎すら否定しているようで。
 自分が、悲しくなった。
 こんなに、こんなに九郎が嘆いていても自分は動けないのが。
 もう一度彼はだから、と区切った。












「だから、ロリコンが一人いても別にどうにもならん」




「な、」
 カミングアウト。
 突然の爆弾発言に緊迫していたアルは胸に衝撃を受けた。
 えぐるような衝撃。裏切られた衝撃だ。
 頭が真っ白になった。今の言葉で真っ白になった。
 なにをいった、このおとこは。
 なにをいった、このやろうは。
 なにをいった、このあるじは。
 なにを―――――――――。
「なぁれぇわぁあああああああああああああああああああああ!!」
 発狂。
「いや、どうせ点ならさ俺がどうしようが大して何にもならないだろ? もうロリコンでもなんでもいいじゃねぇか。死んだらそれで『はい、お終い』なんだからさ」
 こっちはこっちで開き直ってる。
 顔が紅潮しているアルは隠すようにして伏せて、肩を揺らしている。
 その動きは壊れた機械より性質が悪そうだ。
「そうかそうか。先程までシリアスに決めていたのはこれが言いたかったからなのか汝は。どうせ汝のことだ。妾を愚弄するための策だろう。見事だ褒めてやる。だが―――」
 机を激しく叩いて立ち上がる。
 資料が浮き上がるがそれを気にした様子はない。
 反対に九郎のほうは。
「いや、当たらずとも遠からずってとこだな」
 なんともなかった。
 しかも。
「それより訊きたいことがあるんだが、それに答えてもらえると嬉しい」
 にこやかに笑う。
 その表情は見れないが、彼女も口が裂けるくらいに嗤う。
「いいだろう。聞こう」
 即答にも似たその返事を聞き、九郎は何やら嬉しそうだった。
 そして何を考えたのか、怒り爆発状態のアルに臆することなく近づいていく。
 一歩一歩踏み出す足はアルに近づいていっても速度は変わらなかった。
 アルが生み出している黒き空気も彼には通じていない。
 天然か、それとも。
 九郎はアルの隣までやってくる。俯瞰すれば真下に紫の髪がある地点まで。
 そこまで来ても九郎は嬉しそうだった。
 ゆっくり腰を下ろして目の高さをアルの高さまで合わせる。
 そして目の前にある耳にそっと近づいて、囁くように―――
「なんであのとき、俺と添い寝したいって思ったんだ?」
 紅潮増量。
 今度は憤怒ではなく恥ずかしさ。
 囁かれた耳を押さえつつ、アルは思いっきり退いた。
 それは今までの依頼の資料。その中に一つ、アルからの依頼があった。
 添い寝。
「あれは確か、俺が女の子と添い寝するという依頼を受けた次の日のことだったよな。無事依頼を終えて帰ってきた瞬間、胸倉を掴んでお前は俺になんて言った?」
「―――――」
 開いた口が塞がらない。
 目を見開いて九郎の顔を見ると、勝気に満ちた表情がそこにあった。
 そう、九郎が言ったことは真実。
 ある秋の出来事。
 スラムの一角にある家族からの依頼だった。
 もっとも正式に依頼したのは齢7歳になる少女なので、彼女が依頼主となる。
 両親がくじ引きで豪華海外旅行を当てたので行きたいのだが、招待はペア、二人だけ。
 子供もつれて行きたいのだが、如何せん自分たちは貧しい。
 だが一人で残すのもなんだということで見つけたのがこの大十字探偵事務所。
 つまり、添い寝ではなく常に添っていてくれという依頼だった。
 添い寝の依頼を受けると聞いたときは、なんて卑劣な、と思っていたが徐々にそれは謎の怒りに変わっていった。
 最もそれは1ヶ月ぶりの依頼という理由で九郎は喜んでいたのだが、彼女には違うように見えたようだ。
 その怒りが今理解できた。自分は誰かに縛られていることに。
 じりじりと近づく九郎。それを逃れるように後ろに下がるアル。
 だが結末は予想したようにアルが背を壁に当てる。
 くっ、と喉から声を出すと恐れるようにして苦労の顔を見る。
 相手は速度を遅くするも早くすることもなく、一定の速度で近づいてくる。
 アルが背を壁にぶつけた後もずっとだ。
「どうした、アル? もう忘れたか? 俺がその依頼を妙に喜んで受けていたという記憶はあっても自分の言ったことは忘れたってか?」
 悪魔だ。死神だ。
 目の前に立つのは先程胸を痛めた相手ではない。本当に自分を殺そうとしている相手だ。
「な、汝はぁ……」
 思わず泣きそうになる。
 だが泣けばそれでお終いだ。九郎を怯ませることは出来るだろうが自分自身に負けてしまう。
 そんな思惑が続いている間に九郎はアルの後ろにある壁を両手でついた。
 アルが九郎に覆われる格好になる。身長差、体格差が段違いなのでアルの姿が見えなくなるくらいになってしまう。
 影が彼女を包み込む。
 その影の脅威に胸が締め付けられる。
 ええぃ、どうにでもなれっ!!
 アルは呼吸を落ち着かせて、キッと九郎を睨みつける。
「妾は―――!」

 ピンポーン。

「……ちっ」
 九郎は舌打ちをして彼女から離れる。
 影が消えうせ、光が再びアルに降り注ぐ。
 ふと光はこんなに美しいのかと感傷に浸ってしまったり。
 どっと体の力が抜けてしまい、尻餅をついてしまう。
 当分この格好で力を取り戻そうと考えた。
 そんな彼女の耳に不穏な言葉が聞こえてきた。
 ―――後でベットで泣かしちゃる。
 アルの鳥肌が立った。
 脅威と恐怖は今夜に延長戦だ。
「へいへーい、誰ですかー」
 一気に気の抜けた九郎は、面倒くさそうに事務所の玄関まで赴く。
 その間にもチャイムは幾度となく鳴らされている。
 これは相当急な依頼か、はたまた子供のいたずらか。
 先日は後者でドアを開けた瞬間、トマトを投げつけられた記憶がある。
 食糧難であるこの時代に何を仕出かすかと考えるよりも先に、彼は発狂し子供たちを追いかけだした。
 スラム街を通り抜けアーカムシティ中を走り抜けたと思われる距離を彼は子供たちを追い掛け回した。
 シティの人たちはそれを暖かく見守っていたという。九郎の表情で気づけよ。
 帰ってきたのはその日の夕方で、子供たちが飽きたからもう家に帰ったというオチでこの事件は終了した。
 もちろん帰ってきた後アルが特大の溜息をついたのは言うまでもない。
 前者を切に願いながらドアを押した。
 広がるのは闇。
「はーい、親愛なる君」
 発するのは黒の声。
「な、」
 思わず九郎は目を見開き、退いてしまう。
「汝! この気配は!」
 アルも体を無理に行使して玄関まで走ってくる。
 そんな態度を見て、闇が笑う。
 無邪気に。手を口に添えて無邪気に笑う。
「あはは、そんな歓迎の意を示さなくても。僕は用が済み次第立ち去るからね、お茶もいらないよ」
「くっ!」
「そんな言葉が通用すると思っているのか!」
 二人とも知らぬ間に汗が出ている。額からも手からも。
 手に汗握る展開というものがあるが、それとは違う意味で汗を握っている。
 胸を締め付けられる圧迫感。今から起こる出来事には緊張せざるを得ない。
 目の前にいるのはいわば敵だ。こんな敵を目の前にして緊張しないほうがおかしい。
 だがそんな態度を見ても闇は笑い続けるだけだ。
 その笑いが二人にとって恐怖だった。
 闇が一歩近づいて、笑いを嗤いに変える。
 緊迫した部屋の空気の中で、彼女は高らかに声を出した。




「それで、今月の家賃はどうなってるのかな? 大十字九郎、アル・アジフ」




 彼女の名はナイア。
 探偵事務所を構えるビルの大家。
 月末になると現れる魔性の女。悪魔。
 最大の敵、ここに現れる。

















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