「それで、今月の家賃はどうなってるのかな? 大十字九郎、アル・アジフ」

 ナイアのその一言に九郎とアルは肩を震わせた。
 予想していた言葉ではあったが直に聞かされると緊迫感が増す。
 毎月月末に来る悪魔。悪夢とアルは言っているが左程変わらない。
 この探偵事務所はとある建物の2階にある。事務所は兼自宅を含んでいるため、家賃を払わないといけない。
 建物丸々買い取ればよかったのだが、唐突に思いついた仕事でしかも当時の九郎にはそんな贅沢するほどの金銭は所持していなかった。
 むしろアパートもどきの建物に事務所を構えようと考えた九郎も九郎だが。
 それでもかなり部屋は大部屋である程度ゆったりした感覚がある。
 本当にこれでこの値段、しかも人が住むのかと驚きの色を隠せないほど。
 それもこれも目の前に居るナイアのお陰であるのは間違いない。
 九郎が探偵事務所を作ると言った瞬間、ナイアが全面協力という名で低価格で此処に住ませてもらっているのだ。
 さて、そんな低価格にしてもらえて有難いのに払えない状態があるのか。
「あわわわわ……」
 あるのだ。
 探偵事務所は依頼があってナンボの商売。それが入ってこなければただの家である。
 九郎の慌てぶりを見てナイアは手を口に当てて笑った。
「あはは。その様子じゃあ今月も見送りなのかな?」
 その笑いが怖い。
「……残念ながら、そのようだ。何分こちらも手を施しているのだが如何せん依頼が入らぬものでな」
 九郎とは違い、ナイアの性格が徐々にわかりつつあるアルがこの場を仕切る。
 とは言ってもこのナイアという女性。表情で感情が理解しづらい。
 裏があるのか、いやそもそもこれが表なのかすら怪しい。
 細心の注意を払いながらアルはこの闇に立ち向かう。妙な汗が背中を伝う。
「おやおや。まぁ僕も理解は出来ていたさ。何年も君たちを見守ってきたんだ、それぐらいのことは容易に判断できる」
 そんなアルの隠れプレッシャーにも彼女は臆することはない。むしろ楽しんでいるようにも見える。
 ナイアという闇はそう簡単に抜け出せるものではない。
「なっ、遊んでおるつもりだったのか。汝は!?」
「あはは、面白い反応だよ。アル・アジフ。僕は君のそんな反応が見たいが為にやって来たに等しい」
 喉を鳴らしながらナイアは笑う。
 だけど、と彼女は付け加える。
「やはり、それならそれなりの代償は必要と言うものではないかなぁ。大十字九郎」
 名指しされた相手は、部屋の隅でガタガタ震えていたりする。情けない。
 そんな情けない主を見て、溜息をついていると突然頭を掴まれた。
 声を上げる暇もなく、持っていかれた先はナイアの腹。また、彼女の豊満な胸が頭上にくる。
 それを感じると驚きと同時に憤慨。かなり嫉妬。
「なっ」
 と声を上げたのはアルではなく九郎のほうが先だった。
 震えていた体を無理矢理起こし、ナイアの方を見る。
 彼女は笑ったままでゆっくりとアルの顔へ彼女のそれを近づけていく。
「いわゆる担保というものだよ。でないと僕も生活が苦しいんだ。彼女のような体系は"そういう類"には人気があるしね。性格も反抗的とイイ感じじゃないか。 知識も知っているし、あぁ、これほどの逸材はないよ。大十字九郎には感謝せねば」
「――――!」
「ちょ、ちょっと待て!」
 突然のアル誘拐に戸惑う九郎。しかも目的は人身売買で、売春。
 相棒と助手という立場で、仕事でこそこれほどの逸材はいないのにそれを売られてしまうのか。
 いや、それ以前に離れてしまうのか。九郎に焦りが生じる。
「ナイア。お前はそんなことを考えていたのか。毎回毎回来るたびにアルを見ていると思ったら―――」
「アハハ、バレていたのかい? 君は呆然としているようで真剣な目つきをするところがある。それもアル・アジフに関わることなら特に、だ」
 笑いは止まることはない。ここまで来ると恐怖以前の問題になる。
 この世のものではない笑い、と。
 アルは必死に叫ぼうと試みるが、ナイアの腕に口を押さえられてしまう。口を開けることも許されない。
 そんな彼女の目はナイアを睨みつけることなく、九郎を見ていた。
 考えればこんなに必死に抵抗する九郎は見たことないかもしれない。
 依頼でも必死にやることはあるが、本気の域には入っていなかった。
 今にも飛んでいきそうな彼の形相、今にも叫びそうなその口から覗く歯が牙のように並ぶのはアルの脳裏に焼きついていく。
「当たり前だ。アルは俺の相棒だ。その相棒がいなくなったら更にナイア、あんたに家賃なんて払えなくなるぞ。俺たちは二人で一人、どちらがいなくなっても俺たちは活動できないんだよ」
 その形相をナイアも見て、ふっと笑みを緩めた。
 妖しげな、怪しげな笑い。
「それは、大十字九郎、君はアル・アジフを心から信頼しているということかな?」
 その笑みを見て、九郎も笑う。
「当たり前、だと言っただろ?」
 その言葉を聞くなり、ナイアは高らかに大声で笑った。本当に笑った。
 手で顔を覆い、顔を上に上げ、口を大きく開いて笑った。
 突然の壊れたような笑いに、九郎もアルも目を見開いて彼女を見た。
 果たしていつまで続く笑いだろう。
「楽しい! 愉しいよ! 二人とも! ここまで信頼できる相手、ここまで愛情を表面に出す相手。なんて君たちはそう表現を簡単に出すことが出来るんだ!  あはははははは!」
 怖かった。やっぱり彼女は怖かった。
 というか家主が壊れているアパートってどうかと思う。住居変えようかな、と九郎の頭に過ぎった。
 目線でそれを知らせると、口元を押さえられているアルも目を細めて軽く瞬きする。了承の合図。
 当分それは実行できないだろうけど。―――何故ならこれ以上安い物件を買おうとするならば世界に喧嘩を売らねばなるまい。
 ナイアの高笑いをBGMに溜息をついていると、ふと、ナイアの腕が緩んで隙が出来た。
 それを逃す彼女ではなく、即座にしゃがみこみ、一気に九郎の元へ走りよる。
 笑って迎えてくれる九郎を見て、ほぉっとした。そして決意した。
 気を許してはいけない相手ナンバーワンにナイアを登録。
 大大大大嫌い相手ナンバーワンにナイアを登録。
 ブラックリストナンバーワンにナイアを登録。
 ちょっと胸でかいからって威張ってんじゃねぇよナンバーワンにナイアを登録。
 最後の一項目を外し、全く意味が逆のリストには九郎を登録することにする。妙な気がするがこれがアルの本心だ。
 そして、もう一つ。
「九郎」
 まだ笑っているナイアを無視して、アルは九郎に声を掛ける。
 返事をせずに振り返る九郎を見た後、溜息混じりに言った。
「妾は絶対胸の大きな女性にはならないと決めたぞ。あやつの体系になるというのは激しく癪だからな」
 その言葉に九郎は再度目を見開く。そして笑う。
「へいへい。どうせ俺はロリコンですからねー。アルの体を見つめてハァハァしますよー」
「なっ、汝は! 開き直りよってからに!」
 バッと体を抱くようにして一歩退くアル。
 それを九郎は追うように一歩詰め、舐めるように彼女の体を眺める。視姦、そうアルの頭に浮かんだ。
 開き直った相手ほど、どれほど怖いか。今、アル・アジフは身をもって体感している。
 やはり脳内登録を修正せねばならないだろうか。少しでも心を許した自分は馬鹿だったろうか。
 顔が引きつり、九郎に逃げ場を失われながらアルはそんなことを考えた。


「そこまでにしていただけませんか?」


 ふと声がかかってそちらを二人して見ると、高い笑いしているナイアの後ろ―――玄関のドアから長身の男性が入っていた。
 九郎と比べれば断然白い肌、九郎からすれば血液足りないんじゃないかと思うその色。
 目付きは鋭く、冷たく冷酷な印象を受ける。顔筋はすらりとしており、体つきのバランスもよく、一目で男性が鍛えられていることがわかる。
 黒い服を纏い、手には白い手袋。どこぞのご令嬢の執事か運転手のように思われる。
 その男性の声が響いた後、ナイアは笑いをやっと止め、彼を見る。
「あぁ。ごめんね。―――大十字九郎、アル・アジフ。僕も悪魔じゃない。むしろ味方のつもりだ。君たちは面白い逸材だし心から大事にしたいと思っているんだよ」
 からかいたいだけだろうが、とは言えなかった。
「そこで僕が君たちの手助けの為に依頼人を探してあげたのさ。君たちに似合ったとっておきのを、さ」
 その言葉に二人とも首を傾げ、顔を見合わせた。
 そして同時に両手を肩まで持ち上げて「さぁ?」と言葉を合わせた。
 ふふふ、と口元を押さえている笑いは今は気にしないほうがいいだろう。
 九郎は顔を上げて男性を見て、あぁ、と手を打った。
「あんた、どこかで見たと思ったら。ウィンフィールドじゃないか」
 その言葉にウィンフィールドと呼ばれた男性は、目を細めた。一層鋭さが増したように思える。
 だが次に言葉を発したのは彼ではなく、アルだった。
「知り合いか? 九郎」
「いや、知り合いじゃない。……アルは知らないのか、あの――――」
「すいません。そのことは控えさせていただけないでしょうか。こちらも何分過去を捨てて生きたいものですから」
 真剣な目つきで見られて、拒否するものはそうそういない。九郎も例に漏れることなく、両手を挙げて了承した。
 おそれいります、と深々と礼をするウィンフィールド。かなりの礼儀正しさだ。
 アルは思わず、ほぉと感嘆してしまった。
「こういう社会的な態度は我が主にも見習ってもらいたいところだ」
 腕を組み何度も頷く。どうやらそれほど九郎が反社会的らしい。
 言い返せないようで、唸り声を上げながらウィンフィールドとナイアを見る。
「それで? あんたが依頼主なのか?」
 声を少々荒げながら尋ねると、ウィンフィールドは少しの間手を顎に置いた後、首を横に振る。
「いえ、確かに依頼するのは我々ですが、依頼人としてはお嬢様になります」
「「お嬢様ぁ?」」
 九郎とアルの声が重なる。それを聞いて再びナイアが口を押さえながら笑い始めた。やはり無視。
 声が重なったと同時に、玄関のドアが軋みをあげて開かれる。
 そこにはこの場には不釣合いの少女が立っていた。
 一番に目を引くのはその服装だろう。ほとんど茶色に近いこの部屋の世界に出来た一輪の花。
 煌びやかな服装がすぐに九郎の体を引かせた。自分では到底手に届かない貴族階級の服装と気づいたからだ。
 桃色の色と共にフリルのついたその服装。靴はブーツだがこれまた高そうである。
 彼女の顔はまだ幼さが残っている。九郎よりやはり数年分若いだろう。
 弾力がありそうな頬。柔らかな目元。だがその表情はきりっと引き締まっている。
 やはり普通の人間とは違うその立ち振る舞いに自然と九郎は気が引き締まる。
 それと同時に、どうしてそんな貴族階級とナイアが関わりを持っているのかという疑問が出てきた。
 その問いは今は訊くことが出来ないだろう。―――ナイア自身が駄目な状態だからだ。
 少女は部屋に入り、周りを怪訝な顔をして見回す。
 眉間に皺を寄せた顔は、明らかにこの場所が嫌そうな気配だった。
「汚いですわね、掃除することをお勧めいたしますわ」
 と賜った。
 予想できた言葉に、肩を落とす住人二人。
 こういった相手には何を言っても暖簾に腕押しなので、反論はせずに流すことが得策である。
 そのことを二人は三年間の間に教訓として学んである。
 少女は気品を表すように、手で軽く髪を靡かせて二人を見た。
「失礼。申し遅れました。私、覇道瑠璃と申します」
 ――――――。
 その挨拶に二人は目を見開いた。今日でもう何度目だろう。
「は、覇道?」
「えぇ、多分貴方がたが予想しているその覇道ですわ」
「覇道財閥だとでもいうのか!」
「そうですわ。……少し五月蝿いですわね、貴女」
 彼女の言葉に今度は口まで開かれた。開いた口が塞がらない。

 覇道財閥は、数十年前覇道鋼造によりほとんど一代で築き上げられてきた大資産家である。
 このアーカムシティでは誰もが知っているその姓。覇者の道。まさしくその名に相応しい。
 覇道鋼造は過去に一度戦争に赴き、行方不明になったという経歴がある。だがしかし戦争終了後三年が経ち、その行方は判明し救出。
 その後、何かに取り付かれたように事業を立ち上げ大成功を収める。
 今出来ている大半の設備は覇道鋼造の手によるものだとされている。つまり彼はこのアーカムシティの救世主、創設者でもある。

「付け加えますと、瑠璃様は覇道鋼造様の孫にあたります。私はウィンフィールド、瑠璃様の護衛兼執事をさせて頂いております」
 深々とウィンフィールドは礼をする。
 だがそんなこと、二人は全く聞いてはいなかった。
 今まで数人程度だが貴族階級からの依頼はあった。もちろんその大半、いや全てが幼い少女からの依頼なのではあるが。
 しかしそれと比べると覇道財閥とは大きすぎだ。今までの依頼を跳ね除ける最上階級だ。
 そんな、かの有名な覇道鋼造の孫が目の前にいる。これはどういうことか。
 口を開いたまま呆然としている二人を見て、ウィンフィールドは軽く溜息。咳を一つしてから言葉を続ける。
「今回、貴方がたに依頼したいと言うのは覇道鋼造様、瑠璃様の警護。及び犯人の捜索・逮捕です」
 ん、と声を上げて現実に先に戻ってきたのはやはりアルだった。
 ふと顎に手を当てて考える素振りをしてから、彼に目線を向ける。
「汝、先程汝が護衛係とは言わなかったか。妾は汝の過去を知らぬがどうやらかなりの手練であろう。そんな者がおりながら妾たちに助けを乞うのか。 しかも犯人の捜索と逮捕と言ったな。事情は後に説明してもらうとして、そういった仕事は自警団のものであろう。わざわざ妾たちに頼むことであろうか」
「そんなことを言ったら君たちの仕事がなくなっちゃうじゃないか」
「少し黙ってろ、悪夢。今はこの若僧と話をしている」
 ナイアを一風して、アルはウィンフィールドの顔を見る。
 瑠璃が何かを言おうとしたが彼はそれを片手で制した。
 目を一度閉じてから彼は口を開いた。
「これは失礼しました。しかし、この度の事件はどうやら自警団程度では追いつけないという判断がなされまして。相手が『黒き聖域』であることもあるのでしょうが。 そこでナイアさまからのご紹介がありまして、貴方がたにその依頼を受けていただこうと」
 目を開く。
「――――どうやら、『黒き聖域』に対抗できる力をお持ちと伺ったものですから」
 ウィンフィールドの意味ありげな台詞に、アルは即座に彼らに紹介した相手を見る。
 睨み付けるような視線に対して、彼女は口笛と笑いがごちゃ混ぜになった声を出した。
 このお喋り年増が、と心で罵ってみる。どうせ言葉で言っても通じないだろうから。
 溜息をつきつつ、アルは頭を掻いた。
「『黒い聖域』関連か。調査をちょうどしているところだというのに。……全く、これこそ我が主のせいだぞ」
 首を動かすと、その主が顔を叩いて気を引き締めていた。多分、今現実に戻ってきたのだろう。
 視線を合わすと彼はにこやかに笑ってみせた。これが意味することは―――。
「その依頼、受けた」
 ということだ。
 アルは頭を抱えた。
 『黒き聖域』は汝だけのものではないぞこの自意識過剰男が、と。
 かくして大十字九郎は念願の『黒き聖域』の事件に立ち入ることになる。




「汝らの『黒き聖域』に関する認識はどれほどのものであるのか。まず、それを問いたい」
 依頼主である覇道瑠璃を部屋の中でも一番大きいソファに座らせ、テーブルを挟んだ位置にアルが小さめのソファに、少し離れた場所に九郎がパイプ椅子に座って彼女らを見ている。
 ウィンフィールドとナイアは瑠璃の後ろに立ってそれを眺めていた。
 アルがノートを取り出して書き込む体勢に入ったとき、瑠璃が口を開いた。
「……それより貴女、言葉遣いが悪くありません? それが依頼者に対する態度なのですか?」
「あー、姫さん姫さん。そいつに何を言っても無駄だ。敬語なんてロクに覚えやしない。自己中心的思考だから」
「それは汝も同じだと思うが」
「ちょっ、貴方も"姫さん"とは何事ですか!」
 思わず立ち上がって、彼らの顔を見るが別段表情の変化はない。
 むしろ顔を赤くしている瑠璃を不思議そうに見ていた。
「いや、第一印象がお姫様だったからな。瑠璃さんというのも気が引けるから姫さん。どうだ、この偉大な俺様のネーミングセンス」
「最悪この上ない」
 無表情でペンを回転させながらアルは言った。
 その行動に顔を顰める九郎だが、いつものことだと自己解決させて一つ溜息をついてから表情を戻す。
 さぁ、始めてくれと言わんばかりの態度に苛々しながらも瑠璃は深くソファに座り込む。
 座る際、埃が立たなかったのが唯一の幸福か。
 最悪の屈辱だった。自分のプライドを高く持っている瑠璃であれば、そんな敬語も使わぬ相手など言語道断であった。
 覇道という姓に生まれたのであればその生を清く美しく生きねばならない。人の上に立つ身であらねばならない。
 最初自分は探偵事務所に依頼する案には反対だった。しかも、かなり。
 『黒き聖域』など覇道家を総動員させれば事足りる。だから下賎の身にその任を任せるのはただの金の浪費だと考えていたのだ。
 だが如何せん、『黒き聖域』の情報はいくら覇道家であろうと自警団並しか得られなかった。つまり謎という解釈しか。
 これでは対策が練られない。周りの声もあって、渋々瑠璃は承諾することになったのではあるが。
 ―――これはいくらなんでも。
 目の前のアルを見て、溜息をつく。まだ子供ではないか、と。
 こんな相手に謎の『黒き聖域』を打破できる力など持っているはずがない。勿論、彼女の後ろで欠伸を噛み締めている九郎にも。
 それに自分たちの依頼を聞くのが先ではないだろうか。それなのにまず尋問とは。
 やっぱり失敗したなぁ、と心の中で涙を流しつつ質問に答えることにする。
「……謎の殺人集団ぐらいです。このアーカムシティでは誰もが知っている集団。多分自警団程度しか情報は知らないでしょう」
 溜息混じりに言った瑠璃の言葉に、やはりか、とアルは呟いた。
 その何もかも知っているような、自分を見下す態度に少し腹が立った。
 一通りペンを動かした後、彼女は瑠璃の顔を見る。
「汝、魔術というのを知っているか」
 首を傾げて答える。
「ふむ、やはり知らぬか。いや言葉として聞いたことはあるだろうが、実際見たことはなかろう」
「魔術などという非科学的なものに捉われているのですか、貴女は」
 目を細めて軽く笑う。非科学的なものを信じることは覇道家では許されないことだ。
 幽霊? 怪奇現象? 魔法? くだらない。目に見えるものが現実だ。
 そんな思考を打ち砕くアルの笑みがそこにあった。
「非科学的、か。成程。非科学的なものなどこの世界にはたんまりとあるにもかかわらずそれを否定するか、汝は……。 空気の流れは。人間は何故生きているのか。重力の存在意義は。五感の存在意義は。光は何故あるのか。―――これは科学で証明できるのか」
 口を噤む。そんないきなり言われて答えられる問題ではない。
 瑠璃が目を見開かせて彼女を見ていると、誰かに肩を叩かれた。
 見ると、ウィンフィールド。
「アル……さまでよろしいでしょうか。その質問の中には科学とは関係のないものが混ざっていましたが」
「ふん、そこの小娘よりは頭が働く。だが科学で証明できないものは日常に溢れているだろう。魔術もその中の一つなのだ。軽々しく非科学的で片付けて欲しくないものだ」
 呆気にとられていると、ふと自分が小娘呼ばわりされているのに気がついた。
 自分のほうが小娘ではないか、と口に出そうとしたがアルの目付きに黙らざるを得なかった。
 睨み付ける。それ以上の行為がそれに含まれている。恐怖で体を震わせていると、ウィンフィールドの口が開いた。
「それは申し訳ありません。我々は魔術とはかけ離れた環境に居ましたゆえ、そういうことには疎いのでございます」
 詫びるウィンフィールドを瑠璃は止めようとした。そんな人の上に立つ覇道に仕えているものがそう易々と頭を下げるべきではないからだ。
 しかも彼、ウィンフィールドと言えば覇道家から絶大な信頼を得ている護衛だ。そんな彼が――――。
「まぁ、よい。これでは話が進まぬ。魔術の話は後回しだ。どうやらそちらの依頼を訊くほうが早いようだからな」
 こんな自己中心的少女にひれ伏すような態度とは。
 瑠璃は自然にスカートを握り締めていた。いつも皺なく仕立てられていた服だが、これでは家に帰ったら皺だらけの服になっているに違いない。
 感情を手で押さえつつ、顔も少し顰めつつ、瑠璃は深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
 ウィンフィールドがアルと瑠璃の中間にある机に歩み寄り、上に一枚の紙を差し出す。
 さすがの九郎もその紙は見えないので、立ち上がりそれを眺める。
 その紙に書かれた一番最初の節は。
「『果たし状』。―――なんだ、因縁でもあるのか?」
「汝、それは以前郵便箱に入っていた、汝に対する挑戦状だ。添い寝した少女の幼馴染と言う少年からの」
「……つか、そんなもん早く処分しておいてくれよ。アル」
 憮然とした態度で、アルはその紙をどかして九郎にも見えるようにウィンフィールドが出した紙を見せる。



 拝啓、皆様方には毎度お騒がせして申し訳なく思い候。
 だが我々『黒き聖域』の行動は未だに留まることはない。
 何故なら我々には即座に実行せねばならぬ計画がある。
 ゆえに、残念ながらここで止まるわけには行かない。
 さて、今回このような手紙を覇道の皆様方に半ば強引に送ったのは、覇道の皆様方に検討していただいことがあり筆を執った次第であります。




「―――候?」
「いいから、続きを読め」



 その検討とは『覇道鋼造氏と覇道瑠璃氏を我ら『黒き聖域』に譲り渡す』ことである。
 覇道家の皆様方には要となる方々であろうが、我らの目的のため目を瞑っていただきたい。
 目的とは何か、という質問には一切返答しかねますのでご了承ください。
 尚、反対行動をされる際にはそちらの命に関わることであることを了承の上行ってください。
 それでは、月が欠けることのない晩、日が変わる時間に会いましょう。

                                ――――『黒き聖域』広報係




 読み終え、顔をあげた九郎の最初の一言。
「アル……俺、広報係の人を考えると涙が出てきたよ」
「そうか、汝にも人を思う心があったことに妾は涙をそそるな」
 そんな二人の漫才を無視して、瑠璃はやっと真剣な眼差しを向けた。
 また、対するアルも鼻を啜る九郎を無視して紙を眺める。
「つまり誘拐予告ということか。『黒き聖域』にしては薄い作業だな。いや、それではなく本当に覇道家要の二人が重要なのだろうか」
 ふむ、と頷くアルに瑠璃は掴みかかるように顔を近づける。
 アルや九郎に向けた赤い顔とは少し違う顔だ。
「私は絶対『黒き聖域』なんてところには行きたくありません! あんな犯罪集団のところへ行けば殺されるのが目に見えています。何をされるか毎夜体を震わせているのですよ」
 その真剣な目を一瞥してアルは溜息をつく。
「当たり前だ。そんな軽々しく『黒き聖域』に行く輩がこの世にいると思うか。妾も数分ではあるが汝の性格はなんとなく掴めた。とりあえず座れ。焦っては出る案も出ない」
 くっ、とアルに宥められたのを悔しがりながら、渋々とソファに座った。
 血気の荒いヤツだとアルは肩を落としながら思った。だがその分、扱いやすい。そして真っ先に死ぬタイプだ。
 そんな彼女を生かす方法。それを今から考えねばならないのだ。結構難儀である。
 アルはウィンフィールドの方を向く。話は彼のほうが伝わりやすそうだし、少しの間瑠璃には心を落ち着かせる時間が必要だ。
「まずこの手紙が届いたのは今日か、それとも以前か」
 目線を向けられたウィンフィールドは軽く頷くと、予想できた質問だったらしく即答した。
「先日―――二日前です」
 頷きながらアルはノートに書き込んでいく。いつの間にか九郎も復活してアルのノートを覗き見している。
 さらさらと書いていく文字は達筆で惚れ惚れするほどだった。裁判所の筆記官に向いているのではとアルにおちょくるほどだ。
 自分の筆を見られる視線を感じながら、アルは自然に手を動かして自然と口から質問を出していく。
「では覇道鋼造と覇道瑠璃、彼らが狙われる理由はそちらでは理解しているのか?」
「いいえ。存じ上げません。少なくとも瑠璃様周辺ではそういう動きは見せてはいません。恨まれる行動はとっていないと思われるので」
「ウィンフィールド。"思われる"は余計です」
 逐一耳を会話に向けていたようで、瑠璃が口を出した言葉にウィンフィールドは頭を下げて詫びた。
 プライド高いなぁ、と九郎が瑠璃を見ると彼女は彼を睨みつけるような目で見てきた。
 さすがの九郎もこれには驚き、視線をそむける。どうやら人の顔をじろじろと見られるのもお気に召さない様子。
 そんな二人のことには目もくれず――いや、アルは九郎の行動を横目で見ていたのだが――アルとウィンフィールドは会話を進める。
「ということは、覇道鋼造には狙われる理由があるやもしれないということか。まぁ可能性は否定できんし、覇道家そのものが必要なのかもしれん」
 ペンを口元に持っていき、少し噛む。妙な味が口の中に広がるが気にした様子はない。
 瑠璃はどういうことか、と首を傾げていると九郎が軽く片手を挙げた。
「つまり、だ。鋼造氏には裏で『黒き聖域』と繋がっている可能性があるということだ。そしてアルが考えているもう一つの説が、覇道家そのものを乗っ取って、このアーカムシティを支配。 はたまた覇道家から財産・兵器などを極秘裏に提供してもらおうと交渉するかもしれない、だ」
 覇道家といえばアーカムシティの柱ともいえる。近隣の都市より近代化が進んだこの都市は絶好の活動場所となるであろう。
 財産をいただければ極楽だし、兵器をもらえれば武器を所持して世界征服も可能だ。
 覇道家は動けば動くほど人のためになり、また人を殺す家系にも成りうるのだ。
 『黒き聖域』にはこれ以上ない獲物であろう。
 そう説明すると納得したようで瑠璃が頷いた。少し驚いた表情を見せると期待していた九郎は肩をすくめたが、大して問題はない。
 アルは二人の会話が終わったところで頷く。
「例を述べるならそういったところだ。謎の集団と謳われているゆえ、確実なことは言えないのだがな」
 顔を顰めてアルはノートを放り捨て、腕を組み、足を組む。
「現時点では覇道家と『黒き聖域』の繋がりは不明。しかも"満月の夜"というのは明日だぞ」
 月が欠けることのない晩――つまり、満月にはもう時間がなかった。
 そんな短時間にどうするかなど、もう既に知識勝負ではない。
 相手を騙す方法ではなく、相手をどう倒すかに思考を移行せねばならない。
 悪態をつくアルに代わり、今度は九郎から質問することにする。
「明日、覇道家では何か大きなイベントとかはあるのか?」
 視線をアルばかり見ていたウィンフィールドは、半ば驚いてから軽く頷く。
「えぇ、明日は瑠璃さまの誕生日であり鋼造さまが張り切って大きな会場を貸し切ってパーティを行うらしいです」
「そこで照明が暗くなる場面はあるか?」
「進行は私ではなく、瑠璃さまの召使にやらせているのでわかりかねます」
「……つまりあるかもしれねぇってことだな」
「―――まさかその場を狙ってと考えているのですか?」
 瑠璃が少し顔を顰めながら口を挟む。
 九郎は彼女のほうを向き、頷く。そう、と。
「あいつらの行動は毎回理解できない。多分色々な思考のヤツらが集まっていると考えられる。殺人嗜好のヤツ、隠密嗜好のヤツ、臆病なヤツ、発狂するヤツ。 今回はどんな嗜好のヤツがこの任務に当てられているのか。こればかりは俺やアルでも理解は出来ないからな」
 頭を掻き毟りながら、九郎は叫びたい気持ちになった。
 アルも言ったように時間が足りない。今までの『黒き聖域』資料を調べて、今回襲撃する者を予想しても、所詮予想だ。確実ではない。
 九郎とアルが懸命に予想を立てて、確実を得るには一日では絶対足りない。
 二人が依頼者二人に目を向けたのは同時だった。
「何故、送られたと同時にやってこなかったのだ!」
「そんな切羽詰った状態で俺らが活動できると思っていたのか、あんたたちは!」
 突然の激怒に瑠璃は体を引き、ウィンフィールドは頭を下げた。
 息が荒れる探偵と助手は息のあった行動に自分たちで驚いていたりする。そこでナイアが笑うが―――もういい加減、殴りたくなってきた。
 そんな二人にウィンフィールドは告げる。
「申し訳ありません。ナイアさまから紹介されましたのは二組だったので、昨日はそちらに向かわせていただきました。送られた当日は覇道家が騒然としてしまい、それどころではなかったのです」
 その言葉に二人は首を傾げたり、顔を顰めたり。
 ようやく思い出した。彼らは何も勝手に来たのではない。ナイアに紹介されて依頼をしていることに。
「ふ、"二組"? 俺たち以外にも誰かに頼んだのか?」
「えぇ、瑠璃さまがひとつに選ぶようナイアさまに仰ったのですが、ナイアさまはどちらも譲らないようで――結局」
 二つともに依頼をした、と。
 その言葉にこれまた二人の顔は青ざめた。
「……九郎、いや主。妾は凄く嫌な予感が再びしてきたぞ」
「……今日はかなり気が合うな。俺もだ」
 息を呑む音が部屋を包み込みそうだ。でなくとも二人にはそう感じられた。
 不思議そうな顔を瑠璃がしているが、それに構っている暇はない。後ろで笑っているナイア。後でどうしてやるか。
 諦める気分で、二人は顔を見合わせ、お互いの肩を叩いた。
 そしてまるでゾンビのようにゆっくりと顔をウィンフィールドの方へ向けた。
「それで、そのもう一組のヤツの名前は覚えてる?」
 九郎のその言葉に少々背筋を凍らせながらも、胸元から手帳を取り出して開いた。
 紙を捲る音が響き、やがて一つのページで止まった。
「あぁ、はい。書かれてあります」
 覚えていないらしい。
 といっても、九郎とアルの疲れは減ることはないのだが。








「―――マスターテリオンさまです」








 体が、崩れた。

















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