ティベリウスは我が目を疑った。
 目の前に突然現れた青年が突きつけてくる銃、『クトゥグア』と『イタクァ』に。紅と黒、白と青の拳銃に。
 その存在は『黒き聖域』内でも要注意武具として上げられているものの二つだ。
 自動拳銃『クトゥグア』。
 あちこちに装飾がされてあり、かなり目立つ。だが煌びやかかと問われれば首を捻る。いや、首を捻るなどという行為は出来ないだろう。その装飾は見るもの全てを恐怖に慄かせる、凶悪な印象を受けるからだ。しかし真の恐怖は、銃撃にある。連射性能や破壊力が共に最強。まさしく攻撃的な銃であるからだ。その攻撃の直線上にいれば、例え掠る程度だとしても尋常ではない被害を被るであろう。
 回転式拳銃『イタクァ』。
 白と青と評したが、一見すれば銀の輝きを思わさせる。『クトゥグア』が凶悪ならば、こちらは静謐。動と静。黒と白。相反する印象を受ける。銃撃も相反するかのように、直線的な攻撃ではない。まるで舞うかのように、その銃弾は軌道を変えるのだ。しかも、その銃弾は確実に相手の急所を狙ってくる。自動標準機能。そう言い表せば合致するだろうか。
 そのような脅威に満ちた二つの銃が、一人の青年の手に収まっていようとは。


「あんた、一体何者?」
「言っただろ? 大十字九郎、探偵だって」


 時間が止まる。何の動作も起こらずに、対峙する二人はただお互いを見つめているだけである。
 息が詰まりそうなその空気に、覇道瑠璃は指一本すら動かすことが出来ない。
 まるで自分自身が二人の中心にいるような感覚。視線が自分に見けられているという誤認。それだけで自分は気を失いそうになる。それを留めているのが隣にいる祖父、覇道鋼造である。終始、彼女の肩に手を置いて自分が今、彼らとは別の場所にいることを伝えていてくれる。それだけで自分の気持ちは和らぐ。全てとは言い切れないが落ち着いていられるのは事実だ。 だが、未だに指が一本も動かせないのも事実だ。現在自分は傍観者に徹している。傍観者。それを言ってしまえば対峙している者以外全てが傍観者に徹してしまうだろう。
 予想だが、先程逃げたパーティ参加者の中には自警団に連絡した者がいたとする。だが、しかしこの場に来るとその任務を忘れて静観に勤めるだろう。むしろそれしか出来ない。だから自分は目を見開いてこの戦いを見届けよう。傍観者ならばそれしか出来ない。
 一度、目を瞑ってまた開く。
 まるで待っていたかのように、彼女が目を開いた瞬間二人は同時に行動を開始した。
「フッざけんじゃないわよ! 一介の探偵風情が、そんな悪魔を所持しているわけないでしょうが!」
 ティベリウスの仮面は何がそうさせたのか、緑の蛙から赤の鬼へと変貌を告げていた。
 その時間、僅か十秒足らず。仮面のつくりがどうなっているか理解できないが、確認しようにも無理だろう。
「なら、それが――――」
 彼が吼える一方、九郎は冷静な表情でその"悪魔"のトリガーに力を込める。
「新時代の探偵じゃねぇのか?」
 引き金を引いた。
 直線と曲線。お互いに一発だけの銃弾。だが悪魔と称した銃弾はそれこそ恐怖であった。
 ティベリウスは一瞬動きを止める動作を見せたが、それこそ狙われると感じたのかそのまま突き進んでく。銃弾は次第に近づき、やがて目の前までにまで来る。そこでティベリウスは体全体を45度に傾け、『クトゥグア』の銃弾を避ける。その動きは体格に似合わず俊敏で、一片も掠ることなく銃弾は通り過ぎていく。
 だが、それでもまだ『イタクァ』の不定期な動きをする銃弾がある。
 光が鏡に反射するかの如くその軌道は不規則に、また規則的に変化していく。ティベリウスはその銃弾を一番気にしていた。攻撃力は先程の比ではないにしろ、まともに受けるとその間に攻撃の隙が出来る。その間にまた銃弾が撃たれれば一溜まりもない。必死に走りぬけようとする。 無論、走る先は九郎である。最悪の場合相打ちにならねばならない。"それでも自分は勝ちなのだから"。
 それを予想をしない、我らが九郎ではない。拳銃を撃った反動で一旦退くと素早く構えつつティベリウスとの距離を離していく。即座に発砲。先程と同じくお互いに一発だけの銃弾だ。
 『クトゥグア』一発。『イタクァ』二発。
 脅威とも言われる銃弾が三発、この会場を駆け巡っていた。
 そこまで来れば、ティベリウスに焦りが生じ始める。いや、もともと焦りはあったのだがそれが徐々に増してくる。
 先程同様、しかし距離が先程より近い『クトゥグア』が目の前に迫る。
 すかさずそれを避け、距離を縮めていく。その形相は鬼の如く、その素早さは猪の如く。
「チッ!」
 今度は九郎が目を見張る。思わず舌打ちをしてしまった。
 予想だにしなかった速さを出すティベリウスに銃を構えるのがやや間に合わない。一発一発がかなり反動が大きいため、いくら連射性能に長けている『クトゥグア』でも構えなおすのが難しいのである。 人間の腕にはやはり限界がある。それを実感できる拳銃だ。
 『イタクァ』を仕舞い、『クトゥグア』を両手で持つ。安定性が増し、連射にも対応できる。
 既に『イタクァ』の銃弾はティベリウスの後ろを追いかけるようになっている。彼が一度速度を落とせば即座に当たる距離に。 それをティベリウスは―――――




 ――――動きを止めて、まともに銃弾を受けた。




「ッ」
 さすがにこれは我が目を疑った。
 先程も述べたが『クトゥグア』は最強の部類に属するほど破壊力が尋常ではない。並みの人間が喰らえば死を通り越して、跡形も無く世界に灰と屑しか残らないだろう。 『クトゥグア』は本来人類が持ってはいけない拳銃。所持者は史上最強を自負でき、世界の破滅を訴えることが出来る。
 だがアーカムシティは黄金・暗黒・混乱の最大値を満たした世界だ。 そんな崇めたくなる品物を放っておくことはできない。誰か製作をしたか知れないが、その悪魔こそがアーカムシティの本質を世に知らしめていると同義だろう。
 だが、だがしかし、その銃弾をティベリウスは自殺行為に入るかのように動きを止めたのだ。
 その瞬間、光と音が轟き煌く。
 会場を揺るがし、地震を思わせる。いや、これは空襲の類のほうか。なんにしても、動きを止めるのは自殺行為。命を捨ててまでティベリウスは何かを守りたかったのか。否、そんなものを持っているとは九郎からしても微塵に見られることは無かった。
 では、何か。
 彼には何か戦略を持っていて、それをわざわざ―――
「きゃっ!?」
「はぁい。出会えて嬉しいわよぉ? 瑠璃ちゃぁん?」
「―――!」
 悲鳴と歓喜の声が聞こえ、振り返ると何故か先程まで九郎の前にいたティベリウスが瑠璃と鋼造の真後ろにいた。その素早さに九郎も、またこの会場にいた全ての人間は目を見開いた。
 九郎は即座に『クトゥグア』を構え、ウィンフィールドも重たい体を引き摺りながら構えを取ろうとする。
「ハイハイ! もし動いちゃったら瑠璃ちゃん殺しちゃうわよぉ? それにぃ、そんな悪魔の銃の引き金を引いたら近くにいるこのニンゲンはどうなるのか、所持者であるあんたが一番理解していると思うけどぉ?」
「どうやって」
「どうやって? あんた、私たちをなんだと思っているの? 『黒き聖域』よ。『黒き聖域』? あんたくらいなら私たちの事情に詳しいと思ったんだけど、そうでもなかったのかしらぁ?」
 そう言って、ティベリウスは布に隠された体から一冊の本を取り出す。
 分厚い本。片手でやっと掴めるかと思う分厚い本。
 何やら文字が書いてあるが、外国語をまともに勉強していない九郎には読めなかった。しかも筆記体であれば尚更だ。
「魔導書『妖蛆の秘密』。魔術よ、魔術。それくらいは理解できたんじゃない?」
 魔術。『黒き聖域』は魔術を使う。それは九郎とアルが懸命に調べた結果わかったことだ。 いや、しなくても大体の人間は冗談で「魔法でも使っているんじゃないか」と言っていた。 その証明が此処にある。魔術を肯定する事実が此処にあるのだ。
「さぁてさぁて。本当は面倒くさいんだけど、種明かしでもいたしましょうかねー。私の魔導書『妖蛆の秘密』の魔術を!」
 ティベリウスは魔導書を振りかざすと、何の動作もしていないのに勝手に本のページが捲られていく。 そのスピードは軽快な音を鳴らせながら素早く捲られていく。
 そして、ちょうど中間に来たところでその動きは止まった。
「聴け、我が本よ! 紡げ、我が魔術! 此処なる魔導師ティベリウスが告げる!」


「暴食せよ」


 瞬間、ティベリウスの体が一気に膨れ上がり、嫌な音が突然上がりだす。
「―――虫、か?」
 それは耳元で騒ぐ虫の音に似ていた。あの不快な騒音、払いたくなる衝動に駆られながら九郎は彼の変化を直視する。 音は次第に大きくなり、ティベリウスがにやりと笑った感じがすると同時に、ティベリウスの体が爆発した。
 爆発。それは人間であれば贓物を吐き出す結果になるのだが、実際その結果は出されることはなく、静かな爆発音だけが会場に鳴り響いた。
 虫、虫、虫、蟲。
 そこにあるのは無数の蟲。ティベリウスの体から出てきたのは数え切れないほどの蟲。黒い、黒い、黒だらけ。蝙蝠の集団を思わせる暗い空が会場の天井を覆い尽くす。
 ティベリウスの姿はその時点でいない。だが、声だけが耳に届いた。
「これが魔術。私の体は全てが蟲で出来ているのよ。だから私に触れる者全てが蟲に虫食まれる。私には実体が無い、実体がないけれどこうして蟲となって動き回ることは可能なのよ?」
 蟲になったからこそ、九郎の銃撃はかわすことが出来たということになる。
 しかし、銃弾がぶつかったことは確かのはずだ。それは光と音で証明できるはずなのに。 九郎はティベリウスが銃弾に当たったと思われた場所を見ると、違和感が見られた。 それは先程まで九郎が食していた料理を陳列していたテーブルがなくなっていたということだ。つまり、ティベリウスはぶつかる直前机を壁代わりにしたということだ。 普通の人間ではありえない速度。だが、それは普通の人間であれば、だ。
 ここに存在する蟲を集めたものは人間ではない。魔導師・ティベリウスなのだ。
「さぁ、ここからが反撃よぉ? そ、し、て。全てが終わったら瑠璃ちゃんと戯れるの!」
 声が轟くと同時に黒い天井が、九郎へと矛先を向けてやってくる。
 舌打ちをして九郎は銃を構えようとして、即座に懐に仕舞って走り出す。一体何匹いるかわからない蟲の大群だ。その中に銃弾を打ち込んでも、相手側の被害は微々たる物である。 銃弾を打ち込んでいる間に違う蟲たちが襲ってくる可能性が高い。むしろそれを狙っているのだろう。 所持する中で最大の武器である『クトゥグア』『イタクァ』が使えない状況。また所持する武器では蟲の大群に打ち勝つ手段が見つからない現実。 今のところは覇道鋼造・瑠璃から離れない程度に逃げ惑うことしか出来ない。
「だあ! あんな欲情に満ちた蛙野郎に背中を見せるなんて!」
 九郎は悔いながらも走り抜ける。時々振り返り、蟲と瑠璃たちの距離を確認。その判断によって方向転換。
「アルがいねぇと使えるものも使えないし! 銃弾もあれだけいりゃあ撃っても変わらないし! うわっ、すんげぇ俺かっこ悪ぃ!!」
 そんな苦しい言葉を吐きながらも、視線と気持ちは覇道の二人へと向いている。
 こうして離れない程度に方向転換しているのには勿論理由がある。もし目標を自分に向けるだけならば彼らから離れたほうが得策であろう。だが相手は実体の形成を外してこちらに向かっている。 つまりいつ実体を形成しなおすかわかったものではない。しかも相手は飛行物体だ。素早さも伊達ではない。形成を成したとき、瑠璃のすぐ傍にいる可能性はかなりあるのである。
 果たして本当にこのことを九郎は考えているのかは定かではないのだが。
 苦し紛れに撃ってみたりはするものの、やはりそれは全く意味を成さなかった。わかりきっていたことだがやはり決まらないと腹が立つ。頭の中で対策を練るが解はいつまで経っても『難』であった。
 ウィンフィールドは戦闘不能。覇道鋼造と瑠璃は標的対象。頼みのアルは行方不明で。必要なときにいない露出狂とその恋人もそれに続く。つまり今、この現場において動けるのは自分だけなのである。
 余計なプレッシャーがかかってくる。自信満々に出てきた自分が本気で恥ずかしくなってきた。
 蟲を背に色々考えていたせいか、気が散漫としてしまっていた。結構余裕があるかもしれない。
「ほぉらぁ? 死を間近にして何を考えているのかしらぁ? 本当に死んじゃうわよぉ?」
 どこから声がしてくるのか、聴けば気が抜けるティベリウスの声が会場全体に響き渡る。九郎が何も出来ずに逃げ惑っている姿が余程愉快のようである。
「もぅ。同じことの繰り返しじゃあつまらないじゃない。…………もう終わっちゃいなさい」
 声が止むと同時に蟲の瞳が一際光り、彼らの素早さが異常に増す。
 ほとんど真後ろに迫っていた蟲が突然スピードを上げたので、九郎はそれに対応できなかった。
 だが、悪運が強いのか体を反転させてギリギリのラインで回避する。それでも攻撃範囲には入っており、九郎の体に虫が何匹か張り付いてくる。
「間近で見ると更に怖ぇ!」
 絨毯を滑りながら虫を一瞥すると、意外と暢気に言葉を発した。いや内心焦っているのだろうが一見すると先程と変わらないふざけた性格の九郎にしか思えないのだ。
 更に追い討ちを掛けるかのように蟲はまるで『イタクァ』のように方向を転換して九郎の元へと向かってくる。羽音がやけに煩い。耳障りだ。
 九郎はその羽音を打ち切るように耳を掻く。だがその程度では蟲の脅威は抑えることは出来ない。
「死んじゃいなさい!」
 ティベリウスが叫ぶ。どこから発しているか知らないが大声で叫ぶ。
 今の九郎は耳を掻いたりして無防備である。まるで諦めたように立ち尽くして、蟲が来る方向を見ている。否。もしかしたら策を見つけたからこそそのような態度をとっているのだろうか。 どちらにしてもそれを確認することは現在のティベリウスの思考力では無理だった。今、彼の頭の中には『九郎を殺す』ことと『瑠璃を辱める』ことしかないのだから。

 だからこそ、そこに好機が見える。

 耳を掻いていた右手を、手のひらを前にして差し出す。蟲が今にもやってくる、その方向へ。
「ふんッ!」
 力む声と同時に手のひらを中心として波紋が広がっていく。緑色をした波紋は徐々にではなく即座に九郎の回りを守るように形成していく。一秒も経たないうちに九郎の前半分を覆う半球状の結界が出来る。 その結界を認識することが出来ずにティベリウスの本体でもある蟲たちがそれに直撃していく。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
 叫び声が響く。九郎ではない、瑠璃でもない。まさしくティベリウス本人のものであった。
 蟲の大群は全てティベリウスの臓器、皮膚などといった体を形成するものである。それが傷つけられればどうなるのか。それは魔導師でなくても人間、いや生物であればどんなものでも理解出来ることであろう。
 痛み。痛み。見えない何かに自分の身は焦がされていく。
 地上より遥か上にあるこの会場に、姿の見えない相手の叫び声が轟いていた。
「…………うひぃ。やっぱ、単独でやると体にきついぜ」
 雑音を耳にしながら、九郎は突き出していた右手を大きく振る。どうやらティベリウスの叫びは予想していたものらしかったが、それにしても彼の顔色が悪そうに思えた。一見した雰囲気だが体の調子も悪そうだ。
 たった数秒の間に何があったのか。覇道瑠璃は未だに理解できていなかった。目を泳がせてどちらに訊けばいいのかと迷っているようである。
 それに答えたのは、ウィンフィールドであった。蟲に体を虫食まれようとしているのにも関わらず、全く苦にも思っていない顔でまだ言っていない質問について答える。
「あれが、大十字様の持つ『黒き聖域に対抗できる力』でございます」
 答えるウィンフィールドをそう簡単に首肯する瑠璃ではない。ただでさえ目の前でウィンフィールドが冗談では済まない状況であるのに、更に大十字九郎の力。
 最初はそうではないかと考えていた。対抗できる力など、その力が上か、もしくは同種のものであることに限られている。対抗。それは対することが出来るということ。
 そう、大十字九郎が今使った力こそ、『黒き聖域』と同様の力。
「―――魔術」
「魔術ですってぇええええええええええええええええええ!?」
 瑠璃が言うのと見えない何かが叫ぶのとはほとんど同時だった。
 視線を横へとずらすと、瑠璃とはそう離れていない距離にティベリウスが存在していた。今度は蟲ではなく、肉体がある。いやこれは肉体と言えるのであろうか。肉体のフリをしたもの、と例えるほうが正解か。
 しかしそんなことを考えている暇などなかった。今、瑠璃はティベリウスと九郎のちょうど中間地点にいるのである。簡単に言えば挟み撃ちに遭った状態になっているのである。
「チィッ! 『クトゥグア』と『イタクァ』を持つくらいだから魔術を持って当然なのかしら。だけど、あの魔力はなんなの! ただの魔導師とは比べ物にならないじゃない!」
 顔は先程と同じく赤の、般若のような仮面。それを手で押さえて、今目の前の現状を把握しようとしていた。
「探偵? ふざけんじゃないわよぉ! ―――本当に油断したわ、あたし。こんなことなら最初からあんたを殺しておけばよかった」
 軽く頭を振ると、痛みなど感じていないかのように両足で立ち上がった。
 その声が聞こえたかどうかは定かではないが、まるで無理矢理体を動かしているかのように、九郎は構えを取った。
 それがまだ戦闘は終わっていないことを告げていた。両者はまだ倒れておらず、勝敗はついておらず、立ち上がっているのだから。
 二人の間に挟まれている覇道瑠璃、鋼造、ウィンフィールドはたまったものではない。一歩動けば自分たちに攻撃されるのではないかという緊迫感の中、視線を両者に送っている。既に依頼など関係なく、両者の対立の空気になってしまっている。 実際、瑠璃もウィンフィールドも依頼のことなど当に頭から抜け落ちていた。それは緊張の静かもしれないし、本当に忘れてしまったのかもしれない。とりあえずは、まだ、終わっていない。
 そのような機会をみすみす見逃すティベリウスではない。瑠璃を一瞥するとニヤリと嗤った気がした。
「さぁ! どちらが瑠璃ちゃんの元へ先にいけるかしら、ねッ!」
 地を蹴り、ティベリウスは一直線に瑠璃の元へと向かう。
「卑怯、じゃねぇか!」
 ただでさえ瑠璃との距離が離れている九郎は、一瞬思考が遅れた後、慌てて走り出した。
 牽制するように『クトゥグア』と『イタクァ』を放つが意にも介せず突き進んでいく。その姿は虎の如く。
 打ち放っていくと余計時間が掛かると判断した九郎は二挺の拳銃を元の場所、タキシードの内側に仕舞いこみ、更に走りこむ。
 素早さはほぼ同時だが、距離や走り出した瞬間、そして先程の魔術の発動による気だるさを考えると断然九郎のほうが分が悪い。護衛のウィンフィールドもあの調子では動くことすら危険だろう。既に蟲たちはティベリウスに集まっているので、姿は消えてしまって問題は無いように思える。だが、魔術は魔術。何が起こるかわからない。彼の気力は九郎自身も理解しているが、無駄に動かないほうが安全策なのだ。
 瑠璃との距離が徐々に狭まってくる。が、向こうの方が断然距離が短い。ウィンフィールドが無理をして瑠璃の前に、覇道鋼造もご老体なのにも関わらず何かしらの構えをとるが望みは薄いだろう。触れると虫食まれる魔術に拳で立ち向かうなど。
「くそっ!」
 そんな希望が、儚く消えていく瞬間が目に見えた―――気がした。




「そんなところで挫けている場合ではないぞ。大十字九郎」




 声が聞こえると同時に、一筋の光が九郎の顔の横を通り過ぎ、ティベリウスの目の前に突き刺さった。
 突き刺さった光は矢の形をしていた。ということは打った者がいるというわけで。
 聞き慣れた――聞き慣れたくなかった――声が耳に届き、明らかに肩を落とす九郎。げんなりとした顔でちらりと視線をそちらに向ける。
「おいしいところをとりやがって……美形は最後に登場するってわけか? テリオン」
 視線の先にいたのは、会場の天井に釣り下がっているシャンデリアの上に立っているテリオンだった。
 相変わらず素肌同然の格好に場の空気は一気に砕ける。だが、それ以上にどうやってそこまで上がったのにかに疑問の顔が周囲に浮かぶ。そして、その力に。
「ふははははは! 笑止! 全ては予想できたこと。貴公が苦戦することを見越して、故意に会場外に出ていたのだ。なんとも予想通りの行動をして、余は嬉しいことこの上ない」
「腹立つ腹立つ腹立つ腹立つ腹立つ腹立つ腹立つ腹立つ」
 やはりアルと九郎は似たもの同士のようだ。反応も全くそっくり。
 九郎がその後もブツブツ言っているのにも構わず、テリオンの視線は隣にいたエセルドレーダに向けられていた。
「エセルドレーダ。解法魔術」
「はい、マスター」
 頷くとエセルドレーダは軽く跳躍し、かなりの高さであるシャンデリアから飛び降りる。だがその勢いは地面についた瞬間には消え失せている。その姿は神か天使の光臨か。彼女の色彩では悪魔を連想するのが正しいか。
 それを見て九郎も少しは顔を歪める。
「さんきゅ。とりあえず礼は言っておくか」
 屈託なく笑うその姿にテリオンは珍しく肩を竦めて溜息を吐く。
「愚かだぞ、大十字九郎。魔導書を持たずしての魔術展開は勿論のこと、相手を挑発する言動及び泣き言。余の好敵手である貴公にはあるまじき行為だ」
 う、と正論を言われ身が縮こまる思いになる。そこで気付く。
 魔導書。
「そういや、アルは遅いな。途中で見なかったか?」
「―――アル・アジフなら少しばかり手間取っていたので手伝ってあげました」
 いつの間にかウィンフィールドの元へと近寄り、解法魔術を行っているエセルドレーダが口を開く。その表情は一見無表情に思えるが、若干呆れ顔が入り混じっている。
 どういうことか訊こうと声を紡ごうとした瞬間、その先にいたティベリウスが赤い仮面で怒りを露にしていた。
 一瞬、忘れていたことに九郎の呑気さとテリオンの唯我独尊な性格が窺える。
「『黒き聖域』。貴公はその一員と捕らえてよいのだな」
 テリオンはシャンデリアの上から神の声の如く下界へそう告げる。
 赤い仮面のティベリウスはその声に体を震わせて、キッと彼へ視線を向ける。睨みつけるような視線。
 どこからともなく歯軋りの音が聞こえてくる。それはまさしくティベリウスの方から。
 様子がおかしかった。無視されたことに怒りを表すなら、まず九郎へと視線が向けられるだろう。また邪魔が入ったことに関して言っても、歯軋りをするほど怒りを表すだろうか。
 そんな、信じられないような声を上げて。

「なんであんたが生きてるのよ!」

 疑問符が九郎たちを襲う。
 『生きている』。当たり前のことである。
 マスター・テリオンという人物はまさしく今現在其処に上から見下ろして立っている。足が無いわけでもなく、体が薄れているわけでもなく、青白い顔でもなく、彼独特の雰囲気でそこに佇んでいる。
 まるで幽霊でも見ているようなそんな言葉。九郎は目を細めて隙だらけのティベリウスを見ていた。
 それに答えるようにテリオンは微笑んだ。彼も目を細めて――九郎とは意味が違う――ティベリウスを見ている。
「そうか。どうやら“前の”余はそちら側にいたようだ」
 意味深な発言をし、テリオンは声を上げて笑い出す。その笑いはたちまち会場に広がる。
 視線を向けるとエセルドレーダも珍しく口を歪ませている。いつもの彼女から想像も出来ない妖艶な笑み。
「そうかそうかそうかそうかッ! とうとう“余”は違う道を選んだか! 『黒き聖域』、そうか貴公らに余は身を寄せていたのか! 成程、余は着実に事々を進めていたようだ。つまりは“現在の”余は一時の休息といったところか。くくく、そうかそうか。いいぞ、これは面白い。大十字九郎。貴公には理解出来ぬだろうが余はとてつもなく愉快だ。愉悦だ。恍惚だ!」
 テリオンは頭を抱えて笑い出す。異様過ぎる光景に九郎はおろか、ティベリウスまでも怒りが冷めている。
「だが安心せよ。今現在この時は余は貴公の味方だ。面白いではないか、かつて味方であった者とこうして死闘を行おうとは」
「テリ、オ、ン?」
「うっさいわね! あんたがあんたなら私はやるべきことがあんのよ! 今度こそ消してやるわッ!」
 飛翔。明らかに重そうな体を重力を無視して浮き上がる。もうその目の中には覇道瑠璃は映っていない。
 笑い終えたテリオンは両手を前に突き出し、軽く微笑みながら詠唱の準備に入る。
「御意。貴公の心意気に賞して、余の力を存分にご覧頂こう。――――来たれ、我が魔導書」
 詠唱開始。
「―――聴け! 我が本ッ!!」
 ティベリウスも対抗して詠唱を開始する。
「って、俺、置いてけぼり喰らっておりますのことよ!?」
 そんな九郎の叫び声など二人には全く聞こえてはいない。
 事態は確実に展開していく。テリオンが詠唱を開始すると同時にエセルドレーダが再び飛翔し、彼の傍へと舞い降りる。その目はいつも以上に虚ろな目をしており、体の周りを灰色の霧のようなものが纏っている。
 全くそれを気にした様子もなく、彼女はテリオンの露出された胸板へと掌を当てていく。灰色の空気は腕を伝ってテリオンの元へ。そして彼の周りにも灰色の霧が表れてくる。その“見えている”ことこそ、エセルドレーダが持っている力の強さが表れているのである。
 魔力。それがその名前。
 エセルドレーダ。彼女こそ、マスターテリオンの魔導書なのだ。
「貴公がどれだけの力を所有しているか。自らを以ってして見出してみせよう」
「シャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
 飛び掛るティベリウスをテリオンは薄い笑いを浮かべて、立ち向かう。
 すっと弓を構える。目標は敵。壊れた道化師。
 かつての、仲間。
「―――だが、これも余の出番ではないのだろうな」




 九郎は目の前で展開される戦いに蛆虫が湧くほど、もどかしい気分になった。
 テリオンの戦闘能力は彼に好敵手と言われるほど近しい存在である九郎が一番良く知っている。魔導書を使用せずとも、あの蛙の道化師は一瞬にして蹴散らすことは可能だろう。その圧倒的な力。凛と佇む態度。その全てが憎たらしい。
 そんな彼がどうして探偵などしているのか。彼の能力ならば有力な暗殺者にでもなれるだろう。護衛や傭兵でもいい。その力を有意義に使わないのが不思議でならない。
 それをいうならば自分もそうなのだろうが、九郎には探偵になりたかった理由が数多くある。
 だが、テリオンには?
 テリオンには何かあるのだろうか。
 歯を噛み締める。
 『クトゥグア』と『イタクァ』をまた構えなおす。
 目標は敵。蛙の道化師。
 もう、依頼もどうでもよかった。
 これで相手が自分に目標を変えれば最適だが、牽制は出来るだろう。腐っても魔銃。威力は絶大だ。それに相手は完全にテリオンに向かっている。またあのように、銃弾が衝突した瞬間に蟲になることはない。
 ならば、ここで――――。
「汝はどうしてそうマイナス方向に思考を進めるのか。何事にも前向きな大十字九郎という人間に妾は惚れたのだぞ」
 振り返るとそこには、少女がいた。
 彼女、アル・アジフは九郎と目を合わせるとなんともいえない顔をして、彼を睨んだ。
「我等は唯一無二なるパートナーなのだろう。ならば汝は妾に頼ればいい。妾はそれに答える。それが、パートナーというものなのではないのか?」
「アル……お前」
「さて、呑気に話している場合ではないようだな。行くぞ、九郎!」
「あ、ああっ!」
 アルが腰を屈めると同時に九郎は目を瞑り、下を向く。
 二人の周りに緑色の炎が包み込んでいく。それはゆっくりとそして大きく。
「アル」
「ん」
「さんきゅ」
「……ふんっ」
 顔を背けてはいるが、その頬が赤みがかっているのを見逃さなかった。九郎は頬を緩める。
 張っていた心が一気に緩んでいくのを感じる。
 ―――そうだ、俺たちは唯一無二のパートナーじゃないか。迷うな。頼れ。俺のパートナーを。俺の相棒を。俺の戦友を。俺の、魔導書を。

「憎悪の空より来たりて!」
「正しき怒りを胸に!」


「―――我等は魔を断つ剣を執る!」


 刹那、九郎の体内に魔力が注がれていく。自分のキャパシティを越える増大なる魔力を。
 だが九郎はそれを受け止めていく。流れ流れていくアル・アジフという名の魔導書から流れる魔力を受け止める。
 増大で、しかし優しく滑らかな力。だがうっかりすると痛みを伴う。
 まるで彼女の性格のようで、自然と口に笑みを浮かべる。隣の視線が痛いがそれでも九郎は笑い続けた。
 目を開ける。
 そこに広がっている現状は何も変わらない。だが中で変わったものがある。
 大十字九郎とアル・アジフ。
 彼らの繋がり、絆という力が。
「では、行くぞ。九郎」
「応ッ。テリオンばかりいい格好してられねぇからなっ!」
 九郎は『クトゥグア』『イタクァ』を構えてアルに告げる。その表情には先程弱気な考えを浮かべていたものとは思えないほど活気に満ちた子供っぽい笑いがあった。
 それだ、とアルも九郎を睨むようにして笑う。
 自分の主人とあろうものがそのような沈み込む態度ではいけない。それでなくてもアルが求める大十字九郎という青年はいつまでも子供で、だが勇敢で無謀な性格でなければならない。
 それこそ、自分が愛する大十字九郎という青年なのだから。
「そこの執事―――ウィンフィールドとかいったな。汝の手助けも欲しい。協力してもらえるか?」
 離れた場所で、覇道の二人を護衛しながら九郎とテリオンの様子を眺めていたウィンフィールドはアルの言葉に敏感に反応した。
「な、何を言っているのですか! 突然遅れて現れたと思ったら人の執事を―――」
「小娘の戯言を聞いている場合ではないのだ。汝も助かりたいのなら我等の言うことに従った方が良い」
 正論な意見に流石の瑠璃も口を閉ざす。目の前の展開は確かに九郎やテリオン側が専門だろう。策謀も微かに齧ってはいるが、まだ経験不足。ならば見た目多そうな彼らに任すしかないのだろう。
 あまりにも無様。覇道財閥の、覇道鋼造の孫として恥じるべきことだ。
 ティベリウスに一時的に捕まったことを思い出す。あの時、自分は何か出来たか。叫び、恐怖に慄いていただけ。
 だが彼らはそんなティベリウスに立ち向かう。最後の最後まで諦めずに次にどうするか考えてながら戦っている。
 自分とは、やはり違う位置にいる存在なのか。
「姫さん」
 今度は自分に言葉が向けられる。顔を上げると大十字九郎の顔が。
「俺たちを信じてくれ。今はそれしか言えないけど、絶対姫さんを守ってやるから」
 彼親指を立てて笑っている。その姿はもう既に勝負は見えていると言っているようだった。
「汝、妾の横でよく軟派なことが出来るな」
「妬いてたか?」
「えぇい! 真剣みがないのか汝はッ! それで執事、汝はどうするのだ!!」
 怒りを露にして今度こそウィンフィールドを睨みつける。何もしていない彼は九郎とアルの漫才を呆然と眺めているだけ。
 だが、アルの要望に答えるべく頷いた。
 自分でも何か手伝えるならばそれに応じる。それが数時間ならば見てきた九郎とアルに対する信頼感の表れ。
「わかりました。それで私に出来ることとは?」
 紳士な態度で構えるウィンフィールドにアルも頷いてから答える。
「簡単なことだ。ぶつかれ。以上だ」
 言葉通り、なんとも簡単なことに流石のウィンフィールドも目を見開いた。
 しかしそれに反論したのは瑠璃だった。
「なっ。貴女、ウィンフィールドに死ねと仰るのですか!」
 今度こそ彼女の怒りは頂点へと上り詰めていく。先程は九郎の堂々とした態度で若干落ち着いたのだが、アルの言葉はそれに全く反省することなくとんでもないことを言い出す。
 考えればアルはティベリウスの体が蟲に覆われているのを見ていないのではないか。あの時、彼女の姿は会場には無かった。だからそんな易々と言えるのだろうと、瑠璃は憤慨する。
 だが、アルの態度は不思議がることなく、むしろ怒りを露にしている。
「……小娘は黙っておれというに。勿論、無駄に突っ込めとは言わん。彼奴の体が蟲のようなものに覆われているのは先程、融合した際に九郎から聞いた」
「ならどうするのですか!」
「ああっ、もう! 今から説明するからその狭い空気しか触れていない耳を開いて聴け!」
「アル。お前のほうが無駄に喋ってるが」
 即座にアルは視線で答えるのに、思わず九郎は退く。だがそれで自分も気付いたのだろう頭を掻きながら思い溜息を吐く。
「手短にいく。妾の魔術でそこにいる執事を蟲から防ぐようにする。それならば汝も容易に攻撃できるであろう。後はその能力を活かし我が主を手助けしてくれ。しかし、まさか我等も『逆十字』が来るとは思わなんだからな。この際、力のある者を使うしかあるまいて」
 顎に手を置いて、では自分たちはどう動くかと戦法を即座に考え込もうとした矢先、視線が自分にぶつかるのを感じた。
 見回すと呆気にとられた顔が陳列していた。
 あー、と今度はアルが呆れた顔をする。
 その視線から考えるにどうやら『逆十字』が何たるかを彼らは知らない模様である。
「汝、この状況は話すべきか否か」
 その視線は九郎に向けられた。
 対する彼は、肩を竦めて笑うだけだ。だが彼の意識が違うところへ向かっていることに気付き表情を変える。
「今は時間が惜しい。小娘とご老体は部屋の端の方におれ。無駄に扉を開けられるとあの道化が気付くぞ」
 それもそれで気が向けられるからいいのだがな、と瑠璃には聞こえない範囲で声を漏らす。
「よし、汝。思う存分暴れよ」
「応ッ!」
 『クトゥグア』と『イタクァ』を両手に掲げ、九郎は待ってましたとばかりに地を蹴りだした。
 踏み出した瞬間速度はアルと契約する前のそれとは全く違い、風を切るという言葉が似合うほど早い。
 彼の顔は子供のような笑みを浮かべ、好敵手とそれを邪魔する化け物へと足を運ばせる。
 前向きになった九郎ほど意志の強いものはない。負けることを考えず、負けることさえ楽しみを覚え、勝つことで自分を称える。
 その意志の強さが彼を強くする。
 今の彼ならば『クトゥグア』『イタクァ』の力を思う存分発揮できるだろう。そして、これから形成する魔具も。
「では、執事。少々痛みを伴うかもしれんが耐え切ってくれ」
 頷くのを確認するとアルは目を細め、腕をまっすぐ伸ばす。手の先はウィンフィールドに届くことはないが気にはせず、呪文を唱えるため口を開こうとする。
 だがそれを止めたのはまたしても覇道瑠璃。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
「何じゃ! 以降、汝が茶々を入れる度に九郎への援護が遅れる。つまらぬことなら後で申せ!」
「ではこれには答えてください! 貴女は、貴女の魔導書としての名前は!」
 アルはそれに動きを止める。
 なんだそんな質問か、と暗に伝えている小馬鹿にしたような顔。
 その表情に瑠璃の怒りのボルテージはみるみる上がっていくが、アルはそれを一蹴して強い笑みに変わる。
 意志の強い、我の強い笑み。


「とくと聞け。妾の名はアル・アジフ。その名の通りアブドゥル・アルハザードにより記され残された魔導書『アル・アジフ』。またの名を『死霊秘法』―――ネクロノミコンとも呼ばれている」


 銃声が、響いた。

















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