―――やっと来ましたね、アル・アジフ。
 エセルドレーダは紫髪の少女を視界の端に入ったのを見ると、軽く嘆息する。
 まさか今高々と自分を誇示している少女が閉所恐怖症であることをその場にいる何人が知りうるだろうか。
 あのときのアルの状態といえば、好敵手と自負しているエセルドレーダでさえ目を塞ぎたくなる事態だった。
 十数分前。
 悲鳴をあげて階段を下りてくる、そんな顔と似合わぬ綺麗な衣装に身を固めた人間という波に巻き込まれながらテリオンとエセルドレーダは懸命に上へと向かっていた。
「エセルドレーダ。飛び上がるぞ」
「イエス、マスター」
 刹那、二人は地を蹴り上げ人波から抜け出すと更に空気を蹴り、一気に上へと向かう。
 最中「ここで余の裸体を晒しだせばどのような反応を示すであろうな」と奇妙な笑いを浮かべるテリオンの後頭部をおたまで叩きつつも、彼らはなんとか最上階まで上り詰めた。
 その時には最上階に人の姿はなく、水を打ったような静けさになっている。まるで廃墟、と彼女は辺りの静寂さと廊下に蹴り倒された物たちを見回しながら思う。
 すっと目を細めるとその先にある扉に目を向ける。テリオンと頷きあうと扉へ向けて更に地を蹴り出す。
 が。
「……マスター。今、声が聴こえませんでした?」
 エセルドレーダの耳には微かながら声のようなものを聞き取っていた。確信はその時点ではない。
 彼女の主もその言葉に耳を研ぎ澄し、すっと腕を挙げ人差し指を伸ばす。
「あちらだ」
「すみません、マスター。向かいます」
「よかろう。余も参ろうか」
「女子トイレです、マスター」
 唸る主人を尻目にトイレに足を踏み入れる。あれだけ騒いだ跡があった廊下に対して、トイレはまるで聖域のように真っ白で静寂な空間に包まれていた。
 トイレが散らかっていれば気が滅入るではないか、と先程の例えを一蹴して辺りを見回す。
 改めて耳を澄ましていると、やはり声がドアの中から漏れていた。
 その場所まで歩き、ドアを叩く。「ひっ」などと悲鳴があがるがこれでこの中にいることが判明した。
 しかし、妙に聴き覚えがあるのは気のせいか。
「すみません。誰かいらっしゃるのですか?」
 物腰を低くして尋ねる。勿論、誰かがいるのはわかっているが社交辞令である。
 ドアによる反応はなかったものの、返事は泣き声で返ってきた。
「どうかしましたか。鍵が開かないのですか?」
 それでも返答はない。どうしたものか、と腕を組んで考え込むとキィと音を立ててドアが微かに開いた。
 どういうことだろう、と頭を捻らせながらドアに手を当てて開く。
「――――――」
 絶句。
「ひっ、ひっく。わ、妾は一人! 一人なのじゃ! 怖いよぅ。暗いところは怖いよぅ」
「あ、アル・アジフ!?」
 目の前、トイレの中に広がったのは宿敵であり好敵手であるアル・アジフのみっともない姿であった。
 その姿は彼女の美しさをあまりにも汚すものなのでここでは明記を控える。
 エセルドレーダの声に震えながら首を動かす。その目はまだ定まっておらず、潤んでいる。赤くなっていることから長いこと泣いていたのだろう。
「ひっく。……ナ、コトしゃほん……?」
 すると更に目に涙を浮かべ、服を乱したままそこから飛び出してきた。思わず身構えるエセルドレーダだが、そんなことは杞憂に終わり、アルは彼女の胸に飛び込んだだけである。
「こ、こ、怖かった。怖かったよぅ。狭いところと暗いところは妾は苦手なのじゃ。ほ、本当に感謝するぞ」
 本来ならここで彼女の弱点を得たと笑みを浮かべるところなのだろうが、今の彼女はかなり脆い存在になっている。嘲笑うことなど出来なかった。
 魔導書とはいえ、今の自分たちは人間と同様、いや人間なのだ。好き嫌いも生じるし生理現象も起こる。勿論、エセルドレーダにもある。
 だからこそ、そんな脆い彼女の気持ちを捉えることは容易であり、そんなときどうすればいいのかも心得ている。
 こういうときは、ゆっくり彼女の思うがままにさせておいたほうがいいのである。
 それにしても。

 ―――暗所恐怖症と閉所恐怖症というのは本として有るまじきことではないでしょうか。

 本を保管するにはどうしても閉所と暗所という条件は必要となる。『アル・アジフ』『死霊秘法』といった最上位クラスの魔導書ならば尚更だ。
 となれば、彼女は九郎の手に渡るまでどうやって保管されてきたのか。もしかすると九郎に開放されたときもあのような姿だったのだろうか。
 そんな彼女の頭を軽く撫でながらエセルドレーダは呆れた溜息を吐いた。


 それが今はどうだろう。そのような姿を曝け出すことなく、堂々と高らかに自分を宣言しているではないか。
 そちらの方がかなり笑える。あの後「ナコト写本! く、九郎にはこの事は言うでないぞ! アレに聴かれたら妾は、妾は!」と胸倉を掴みかけてきた彼女の必死な表情を知っているからこそ。
 多分、夜になるとその恐怖を抑えつつ、寝る時は小さく灯りを灯しているに違いない。もしかしたら九郎も既に知っているかもしれないが。
 銃声が鳴り響く。
 自分に向けられたのかと勘違いするその銃弾は確実に命中した。
 ティベリウスという道化師に。
「ギィヤァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
 一発かと思われた銃弾は同時に放たれた二発の銃弾だった。それは見事にティベリウスの肉体に直撃し、確実にダメージを与えている。血を噴出すことは無かったがその痛みはかなりのものだろう。
「俺を無視して話し込んでんじゃねぇよ。この蛙が!」
 怒りを、そして笑みを浮かべながらアル・アジフの主、大十字九郎は彼女と同様高らかに自分の存在を宣言した。
 まさしく大十字九郎こそアル・アジフの主人に相応しい。
 彼女を扱えるのは九郎しかいない。過去にも未来にも。どんな時代を渡っていっても必ず大十字九郎という存在に辿り着く。
 輪廻転生などではない。彼女、アル・アジフの心が彼の元へと辿り着くのだ。


 道化師は突然の出来事に目を疑ったが、即座に対応して空中で方向転換する。見下ろした先には先程自分の前で敗走していた探偵だ。
 名を確か、大十字九郎。探偵と言ったがそれはトンデモナイと修飾語が絶対付く。何故ならば彼は探偵などという言葉では収まることのない、人では有らざる力を所有しているからだ。
 魔術師。
 自分たちと同類である彼が自分に牙を向いている。しかも今回はその力の比が違う。
「魔力増大―――?」
 いや、違う。内包されている魔力はそう隠しきれたものではない。全体を隠し切るならまだしも、部分を隠しきれることなど容易ではないからだ。
 ならばなんだというのか。
 そこで気付く。彼を取り巻く緑の炎に。肉眼でも捉えることが出来る魔力の炎に。
「―――魔導書の炎」
 魔術師に欠かすことのない魔導書。それを媒介にして魔力増強、増大するケースは多々ある。普通ならそれがないことを最初から不思議がらなければならない。考えてみれば大十字九郎はそれらしきモノを所持していなかった。彼個人の戦闘力、プラス魔銃と呼ばれる武器の存在がその根本たる魔導書の存在をかき消していまっていたのだ。
 なんたる、失態。
 つまり彼は自分がテリオンに気が向いている内に魔導書の力を得てしまっているということになる。
 ただでさえ魔術行使が優れていた九郎である。魔導書なんぞの力を得てしまえば、一体どうなるか、判断できるようで未知数だ。
「チッ。やってくれるわ、あんたたち」
 すぅ、と熱していた意識を冷却させていく。物事は熱く考えていてはまとまるものもまとまらない。未知数と自分が知りうる限り最凶の魔術師に挟まれて、ここで熱く暴走してしまえば相手の思う壺となる。
 ここはまず、状況を確認してかからねば。
 だが、それをする隙を与えないかのように靴音が一つ、会場に響く。
 構えるティベリウスだが、九郎は悠然と歩くだけで何も行動を起こそうとはしない。
 敵を目の前にしても、彼は最強で最悪である魔銃を手の中に納めるだけでそれ以上は撃つ体勢にも入らない。
 何故か。
「てめえを殺す前にやっておかなきゃならないことがあるからな。これでも『探偵』なんでね」
 その笑みは何を物語っているのか、その堂々たる姿を見てティベリウスはもちろん、背後にいるテリオンやエセルドレーダも怪訝な顔をした。
 滅多に見れないテリオンの表情に九郎は気を良くする。しかたない、これは終始この会場にいた自分しか知りえぬ事実と推理なのだから。
「そう、探偵は物事を推理する。目で視て、鼻で嗅ぎ、耳で聞く。五感の全てを有して探偵という職業は展開された事件や物事を論理や理論で解決する。 今回の場合はそんなんじゃないんだが……別にどうだっていいだろ。で、だ」
 まるで撃つかのように『クトゥグア』を虚空に掲げる。そしてゆっくりと相手の顔へ。
「俺の推理」
 大十字九郎は潔く、まるで子供のような邪気に満ちていない顔で、高貴なるアル・アジフの主として高々に宣言した。

「てめえは姫さんを捉えることは出来ない」

 だろ、と嗤う九郎に場の空気は一転して凍りつく。しかし、それに構うことなく彼は告げる。
「考えてみれば簡単だった。おまえの体は蟲で出来ている。虫食み続けているその体に触れることはすなわち死を意味する。この場で死んでいるヤツらやウィンフィールドの例を見てもらえれば一目瞭然だろ?」
 同意を求めるように尋ねてはみるものの、それに答える者はいない。しても首肯ぐらいである。
 十分。よし、と呟くと再び空に浮かぶ魔術師を不敵に笑って推理を再開する。
「『向こうから触れて死ぬ』ものを『こちらから触れると死なない』のか。いくら魔術だとしてもそれは不可能だ。生きている蟲、それも形成されている体を殺すことは出来ないし、行動を止めることも出来ない。そんなことをしたら自分も死ぬからな」
「……だったら」
 声を上げたのは捉われるはずだった覇道瑠璃。口を押さえて息を呑む。
「そうだ、姫さん。姫さんに近づいたのに直接手で触れなかったのはそれが理由だ。当たり前だよな、目的の人物を殺してしまったら意味がない」
 押し黙る空気。誰も九郎の言葉を止めようとはしない。
 何故ならばそれが真実だからだ。
 追い詰められているティベリウスも、まさかと体を震わせている。
 この男は、まさか、全て。
 それに「だから」と前置きをしておき、九郎は、大十字九郎という探偵は“真の実行者”に視線を移す。

「この覇道瑠璃拉致事件の実行者は一人ではなく、二人。―――だろ? そこで高見の見物やってる『逆十字』さんよぉ?」

 会場にいた全員がハッとそちらの方を見やる。
 そこには――――夜風に自分の服が翻っている、侍風の男が悠然とした態度で見下ろしていた。
 満月の夜に映るその影は美しく、和風なイメージを辺りの人間に植え付けた。それほどの存在感。
 男は嗤う。
「見事。流石は探偵と名乗る者。見事に我等が策を見抜いたか」
「策つっても、そこの蛙が暴れに暴れまくっている間におまえが姫さんをとっ捕まえようという寸法だろ。見たところ、蛙の方が全体攻撃に長けているみたいだからな」
「そこまで見破ったか。うむ、確かに拙者は一対一での戦闘が主な戦術。代わってティベリウスはその蟲の魔術で時間を弄することなく敵を瞬殺を行う。策としては十分」
 侍風の男は九郎の言葉に動揺することなく、まるでそれを知っていたかのように振舞う。
 その態度に仲間であるはずのティベリウスが憤り、声を荒げる。
「な、ティトゥス! あんたこうなることわかってたの!?」
「アウグストゥスがそのようなことを話していた。可能性として低いと考慮していたゆえ貴様には告げなかっただけだ」
 唸るティベリウスを一蹴して、侍風の男――ティトゥスは公然と九郎を見下ろす。
「では―――」
「このまま逃げてくれるってことは、ないか」
「笑止。敵前逃亡は士道不覚悟。帰還の命を受けていなければ拙者がすることは唯一つ」
 そう言った瞬間、ティトゥスの手中には一振りの刀。凛と輝き、刃が片方にしかない先が尖っている、かの極東の地で一時代を形成した武器。
 日本刀。しかも、二刀。
 通常ならば難易度が高い二刀流。かの侍も会得するのに数年の月日を重ねたと言われる奥義に近い流派である。
 それを、まるで紙でも掴むかのように軽々と持ち上げてみせる。
 ティトゥスは優雅に構え、相手を見据える。
「拙者の名はティトゥス。いざ、参る――――!」
 体に風を一気に感じる。まるで疾風の如く砕けた屋根から飛び降りるその姿に九郎は舌打ちをして、銃を構える。
 が、
「ここは私が」
 押しのけるように九郎の前に出るのは、長身の男。
「…………ウィンフィールド」
「すみません、大十字様。しかし敵は二人。ここで分散した方が得策でしょう。それに―――」
 ウィンフィールドは顔を見せないように九郎の前に立つ。その姿は冷静で偉大であり、その背中が一際大きく見えた。勿論錯覚ではあるが、彼の過去の一端を知っている九郎にはそれで十分だった。
 そして何より、彼は笑っていた。表情には出していないが、笑っていたのだ。目の前の敵を見て。

「相手は武士。ならば武道で返さなければ相手に悪いでしょう」

 それに九郎が答える暇さえ与えずウィンフィールドは地を蹴る。
 相手であるティトゥスもそれを察し、九郎に目を向けることなく対峙する敵へと力を注ぐ。
「勝負を決する前に尋ねる。汝の名は」
「覇道財閥で覇道瑠璃さまの執事をしております、ウィンフィールドです。……以後お見知りおきを」
 瞬間、衝突。
 刀に対して素手で挑むのは不利である。リーチの差もあるが、その刀を受け止めるのは素手では不可能に近いからだ。
 手甲でも嵌めているならば例外だが、彼が嵌めているのは白い手袋のみ。どう考えてもウィンフィールドには勝ち目がないように思える。
 だが、それでも大十字九郎は知っていた。
 彼が、対抗できる力を持っていることを。
「ぬっ」
 ティトゥスは刀を一閃して気付く。
 そう、受け止めることが出来ないならば―――避ければいいのだ。
 事実ウィンフィールドはティトゥスの剣戟を避けていた。それも目にも留まらない素早さで。
 その軽快な体の動きは目を見張るものがあり、ティトゥスを含め心配していた瑠璃やアルでさえも表情に驚きの色を隠せないでいる。
 既にその素早さは先のティベリウス戦を遥かに越えている。
「ほう」
 驚きの顔から一転、ティトゥスの顔は喜びに変わった。
 心は動揺から高揚に、体は手加減から俊敏へと。
「これは」
 それでもウィンフィールドの表情は変わらない。だが、変化は確実に見られた。刀の素早さが変われば彼の動きも早くなっているのだ。それも相手の力量を確かめつつ、適度な速度で。
 まるで挑発するかのような体の動きと視線に、ティトゥスの口が吊り上がる。
 十数回刀を振り終えたところで彼は一旦退く。
 ウィンフィールドも計ったように動きを止めて、だらりと腕を下ろす。
 完全無防備。しかし、気迫は変わりようもない。むしろ増大している。魔導書を手に入れた魔術師の如く、その力を曝け出している。
「これは失礼した」
 口元を歪めながらティトゥスは右手に構える日本刀を肩に乗せる。
 彼もまた己の力を曝け出すように気迫を外に追いやっていく。魔術師の力ではなく、人間としての力。
 武道家としての気迫を。
「どうやら力を見誤っていたようだ」
「―――では、帰っていただけるのですか」
「そうではない。わかっているのであろう。ウィンフィールド殿」
 鍔を鳴らして、侍は二本の刀を足元に傾けるようにして持つ。
 最愛なる友人を迎えるように、最高なる好敵手に向かうように。
「貴殿も武道家ならばわかるはず。最高の敵に出会えたのならば、その力を以ってして相手する。自身の力を行使して相手を滅する。自身の力を証明するために全力で立ち向かう」
 その言葉にウィンフィールド―― 一人の武道家は目を瞑って答える。
「サムライは作法を重んじず、ただ己の力に酔狂すると聞きましたが、どうやら本当のようですね。しかし」
 左足を一歩、前に踏み出し、腕を胸に添え、構える。
 息を吐き、心身ともに安定した状態でキッと瞳を開く。
「―――その台詞、否定は出来ません」




「な、なんじゃあの執事は。『逆十字』だぞ。その一人に魔術を持たぬ人間が一人、対等に立ち向かっているとでもいうのか」
 突然現れた侍風の男と冷たい印象を受ける執事との対峙を見て、アルは思わず息を呑んだ。
 『黒き聖域』内でも戦闘能力、魔術能力に長ける数人に与えられる『逆十字』の称号。並大抵の魔術師では死すら覚悟せねばならないものを、魔力を一切持たない人間が傷一つ負わずに凛と立ち尽くしている。
 確かにまだあの侍風の男は魔術を行使していない。だがそれでも戦闘能力も一般のそれとは段違いのはずである。
 しかし、あのウィンフィールドと名乗る執事はそれすらも上回る腕前。今は避けることに徹しているが、攻撃面でもそれは同じであろう。
 魔術師と同様、人間には炎のように巻き起こるオーラがある。一般に『氣』と呼ばれるものである。
 人それぞれ大きさや色合いは異なり、鍛錬せねば成長しないものもある。この執事の場合、後者の意味合いもあるだろう。己の精神力や体力、全てがその気迫で分かるのだが、それを肉眼で捉えるにも訓練は必要である。大抵はプレッシャーという名で体中の細胞に訴えかけられる程度で、直に戦ってみなければ相手の力量は掴めない。ウィンフィールドの力も先程まではプレッシャー程度で済んでいた。
 だが、今は違う。人間として巨大すぎる。肉眼ではっきり視えるものであり、プレッシャーどころではない。これは並大抵の努力で取得できるほどの気迫ではないのだ。
 断言しよう。この気迫はアル・アジフの主、大十字九郎を軽く越える。
 アルが驚愕している横で、覇道瑠璃も目を見開かせていた。
 自分の執事が途轍もない武道の持ち主であることは祖父から聞いていた。
 しかし、その経緯や経歴までは耳に入れていなかった。力がある。護る力がある。それだけでよかった。
 なのに目の前の展開はどうか。大十字九郎の魔力だけでも驚きなのに、身近にいた執事さえも強大なる力の持ち主だったとは。
 体が、震える。
 たった数秒間の出来事にも関わらず、覇道瑠璃は執事の見方をガラリと変えていた。
「さて、と」
 だがこの男だけは。
「アル。どうやらテリオンはこちらを手伝う気はないらしい。残った蛙ピエロ。俺たちがケリつけるぞ」
 大十字九郎だけは飄々として、気に留めることなく自分のパートナーだけを見ていた。
 呼びかけられたアルは体を一旦震わせ、九郎を視界に入れると徐々にその活気を取り戻してきた。
 ―――我が名はアル・アジフ。世界最大を誇れる魔導書。
 ならば、それを行使する魔術師に答えねば。
「ふん、最初からそのつもりだ。あの蛙は妾もいけ好かん。廃棄処分にしてこの世から消滅させよう」
「そうこなくっちゃな」
 お互いニヤリと嗤うと、視線を横で呆としている覇道瑠璃に向ける。
「な、なんです?」
 意気揚々の視線を受けて、瑠璃は若干退くが構った様子はなく二人は片腕を上げて彼女の眼前へと振り下ろす。
 親指を立て、その意志を告げる。
 自分たちの、勝利だと。
「見ておれ。我が主、大十字九郎の往生際の悪さはこれだけでは済まぬぞ。呆れるくらいになろう」
「大十字探偵事務所所長、大十字九郎。この度は最高の報酬を頂きましたので―――」
 突き出した手を開く。

「お代は」
「いりません」

「え――――?」
 呆気にとられる瑠璃を見て、アルはハッと気付き口を押さえる。
「って、また汝の口にはまってしまった! 前言撤回だ! 小娘、依頼料は頂くぞ!」
「ほれほれ、行くぞ。往生際が悪い」
 慌てふためくアルの襟元を掴み、九郎は駆け出す。
 まるで新しい遊び道具を見つけた子供につれ回される親の如く、ズルズルと引っ張られる彼女はそんな彼を見て、溜息を吐く。
「……やれやれ、往生際が悪い魔導書には往生際が悪い主がお似合いか」
 そんなことを嘆息しながら俯く彼女の顔は確かに笑っていた。
 心からも、口調からも。
 自分が信頼できる相手だから。心すらも任せておける主だから。二度とない愛情を与えることが出来る人だから。
 だから、アル・アジフは大十字九郎に仕え、この身を任せている。
 それを感じ取ったからか、九郎も声高らかに空に浮かぶもう一人の魔術師に告げた。
「さぁ、第二ラウンドだ!」




「いいのですか。マスター。手柄は大十字探偵事務所になりますが」
 シャンデリアの上でエセルドレーダは呟く。ただ一人、己のマスターに聴こえるだけの声で。
 それにテリオンは首肯すらせず、高いところから二つの戦いを見下ろす。
 魔術師対人間。魔術師対探偵。普通ならば後者が圧倒的に不利な展開が覆されている。
 これほど面白い光景はない。
 九郎の推理といい、過去の自分の行いといい、今回は十分に満足できるものを頂いた。
 これ以上のものなど不要。あとは余興だ。まともな判断を『黒き聖域』が出来るとなれば、この戦いもいずれは終わる。
 今はただ、この戦いを見下ろしていよう。
「よい。そのようなもの九郎にでも、神にでもくれてやる。面白い、面白くなってきたぞ。役者は徐々に揃ってきている。 果て無き夢も完遂できよう。儚い衝動も完成できよう。だが、まだ足りぬ。余が満足できる結果となるまでまだ幾分かの期間は必要だ。 その日までの暇潰しだ。今は、この戦いを見ていたい」
「承知しました」
 頭を垂れて了解する。
 テリオンは何も語らない。魔導書である自身に自分が何をしようとするのか、その計画もその工程も何もかも喋りはしない。
 頭の中で構築し、実現可能まで待機する。それまでは余興として暇を潰す。
 彼が設立した探偵事務所もその遊びの一環だ。少々頭を捻ったり足腰を動かす、身体的にも精神的にも行動できるその職業は暇潰しにはうってつけのものだった。
 知らぬ間に一流探偵の名をアーカムシティに轟かせたが、そのようなものですらテリオンには不要だろう。
 全てが暇潰し。天変地異すらも暇潰しの一環と考えてしまいそうな彼の頭は一体未来をどのように見ているのだろうか。
 尋ねはしない。自分は魔導書。ただの本。少々魔力を含んだだけの参考書。偉大な本からの写本。
 静かに捉えるはもう一人の探偵、ではなくその横に連なっている魔導書。
 笑っている、怒っている、苦しんでいる。
「アル・アジフ」
 その姿に数分前の無様な様子は窺い知れない。単なる魔導書として魔術師の傍に寄り添っている。
 だが、彼女は少し違う。自分とは全然違う。
 表情の変化。その豊かな表情の数々。周りの状況すら一蹴するその偉大さ。
 ただ、そこにいるだけで何かが変わる存在。
「少し、貴方が羨ましい」
 言葉とは裏腹に彼女は歯を噛み締めていた。




 剣戟。拳戟。
 両者一進一退の攻防。
 刀を振るい、拳を振るい。
 しかしその攻撃は掠りもせずに、避けられる。
 お互いに力量を測るでもなく、ただ全力でその戦闘に挑む。
 己の力を。己の精神を。己の戦術を。己の武術を。己の証明を。
 侍、ティトゥス。
 武道家、ウィンフィールド。
 息をすることすら忘れるほど、両者は己の全てを注いでいく。
 何度も何度も一撃必殺を狙って放っている攻撃はやはり当たらず。
 先読みをしようとすればその裏をかいてくる。全ては直感。自分の体が動く方へ、長年積み重ねてきた経験が自分を突き動かしていた。
 両者とも表では名の挙がらない、裏の人物。それだからこそお互いを良く知らない。
 だがそれが今回は幸いした。
 自分が知りえぬ最強の敵に、最強の相手に今めぐり合えたのだから。
「シッ」
 短く息を吐き、ウィンフィールドが拳を振るう。その早さは疾風。一瞬にして相手の胸元へ伸びていく。
「破ァ!」
 だがティトゥスは刀身でそれを跳ね返す。視えない攻撃を視えていたかのように払う。
 もちろん視えてはいなかった。それすら直感。もし見誤っていたら彼はその拳で胸を貫かれていたかもしれない。
 そのようなことを思う暇すら自分に与えず、彼は払った方とは逆の刀で横薙ぎに斬りつける。
 風を断つそれは軽い音とともに、相手の肉を切りつけていくはずだった。そう、予想では。
 いや、予想すらしていなかっただろう。むしろわかりきっていた事実だ。
 武道家は瞬間、気配だけで読み取って侍の間合いギリギリまで退いていた。
 あとコンマ一秒でも遅れていれば確実に彼は敗北していたはず。しかし彼の体はそれを拒んだ。まるでバネのような体は見事に避けきり、再び対峙して構えなおす。
 何度目かの仕切り直し。もう数えるのも億劫になってきている。
 だが確実に回数を重ねるにつれて、お互いは相手の力に陶酔した。顔には出さないが心の中では笑っている。
 ―――嗚呼、殺したくない。殺したくないほどに殺したい。
 無限に広がる地獄に行っても、この戦いほどに高揚するものではないだろう。
 そう、目の前にいる相手こそ、生涯の敵。それ以外の者など敵に非ず。
 彼こそが、我が力の最終地点。
「……実に惜しい」
「……いえ、これがいいのです。今が」
 今出会ったことが惜しいのではない。今出会ったからこそ良いのだ。
 でなければ、もう二度と会えなかったかもしれない。
 ならば、今出会ったことが幸い。誇るべきこと。
 さぁ、立ち向かえ。自分自身に。自分を倒そうとする敵に。
 戦慄せよ、己が力を。
 恐怖せよ、己が力を。
 畏怖せよ、己が力を。
 そして振るえ――――我が最大の一撃。




「ふっざけんじゃないわよ! あんたに負けるわけないでしょうが!」
「勝手に言ってろ!」
 道化師は叫びながら蟲を相手に向かわせる。赤い、赤い血を好む蟲を。
 今までとは速度も瞬発力も段違いであるその蟲は一気に九郎の体を突き刺そうと、己最大の速度で向かう。
 だが、そう簡単にやられる大十字九郎ではない。
「ぅぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
 空から向かってくるソレを同じく叫びながら結界を広げていく。
 緑に彩られた帯状の結界は、彼の気迫と同化して徐々に大きく、そして威力を拡大していく。
 触れたものは即座に燃え尽きていく。死に際の嘆きも残さぬよう一気に瞬間に。
 以前の彼ならばこれだけで息が荒れていたのにも関わらず、汗一つ掻くことなく、その顔には余裕さえ窺える。
 そう、全ては魔導書を手に入れたから。
「アル!」
 向かわれた蟲を全て焼ききった九郎は己の魔導書の名前、いや戦友の名前を告げる。
 空へ。
「馬鹿め。敵は一人ではないと先程申したであろう?」
 そこには背丈ほどある黒い刀のようなものを構え、ドレスを翻している少女の姿が道化師の背後に。
「チッ。余裕ぶってんじゃ――――」
「『バルザイの偃月刀』だ。とくと喰らえ」
 斬ッ!
 相手が振り向く隙も与えず、アルはその刀を振るう。それは見事に道化師の外套に当たり、彼の肉体を斬りつける―――はずだった。
「む。九郎が言っていた通り、その肉体、蟲だらけか。これでは確実に殺せぬ――――ッ!」
 苦々しい顔をするアルを狙ったようにティベリウスはその矮小な身体を右手で掴み取る。
 油断していたのであろう、呆気なくその身体は手のひらで掴み取られてしまう。
 小さく漏れる彼女の苦しい息に、ティベリウスは笑みを絶やさずにいられない。
「うふふふふふふ。痛い、痛いわねー。けどアンタ、可愛いからゆるしてあげちゃう」
 蛙の仮面に包まれたティベリウスは本当に心底喜んでいるのかは窺い知れない。
 アルの目に映るのはお世辞にもセンスがいいとは言い難い仮面。開いた口のところから今にでも舌が伸びてくるのではないかという不安すら覚えてくる。
 徐々に近づくその顔にアルは苦しみの表情を浮かべる。だが、それがティベリウスを高揚させた。
 彼の喜びはそこにある。苦しみ、叫び、泣き、人間のあらゆる負の感情が彼の原動力である。
 特に可愛らしいものが歪んでいく姿は脳が蕩けていくほどに心を躍らせる。
 勿論それは相手がしているのを眺めるのではない。自分で行うことに意義がある。
「けどー。うふふ、そうね。アンタの穴という穴をブッ挿しちゃって、ワタシを喜ばせてくれたらね?」
 仮面で隠された顔にはきっと、彼の性格同様歪んだ表情が浮かんでいるだろう。もし、顔という概念が彼にあればの話だが。
「さて、どこから責める? 上から? それとも下から?」
 下品なその質問にアルは答えようともしない。俯いたまま自分の失態を恨むように肩を震わせている。
 九郎はその様子を見ているだけだった。確かに手元には『クトゥグア』『イタクァ』といった魔銃がある。
 しかし、それは先程の瑠璃が近くに居たとき同様、相手がアルに変わっただけの話。今この場で撃てばアルすら巻き添えにしかねない。それは精神的に行えないことだった。
 そういった心理を一瞬で見抜いているからこそ、ティベリウスはその機会を待っていた。
 油断させておいて、アルを手中に入れる機会を。
「ほらほらぁ、アルちゃん? お答えをどうぞぉ?」
 答えなど必要としてはいない。何故ならば彼は一気に楽しむのが好みだからだ。
 上だろうが下だろうが中だろうが外だろうが、穴という穴は全て自分の欲望の掃けとして使わせてもらう。
 そして目の前で苦しんでいく人間の姿を見て、欲望を満たしていくのだ。
 心が躍る。それを想像するだけでも下腹部が熱くなってくる。
 嗚呼、早く。早く犯したい。
 ―――しかし、そんなこと百も承知。
「そんなことすらわからぬ我等だと思うたか、下郎」
 瞬間、ティベリウスの手によってアルが粉々に砕かれた。
 いや違う。人間が粉々に砕かれることなど有り得ない。魔導書とて人間と化している場合は内部構造も人間のそれと同じになる。
 ならば肉片や骨の砕ける音が聞こえてもおかしくないはず。それが一つもしないとはどういうことだ。
 ティベリウスもそれくらい気付いてはいる。状況を懸命に理解しようとした途端、
「痛ッ」
 突然手の中で痛み。ゆっくり開くとそこには、自分の顔が幾筋かの赤い血を垂らしながら映っていた。
 自分の顔が映っている。
 自分の顔が。
「これは、鏡!?」
「ご名答」
 声。思わず後ろを振り返ると咄嗟に気配を感じ取り、浮いている自分の更に上を仰ぎ見る。
 そこには、
「『ニトクリスの鏡』。虚像だ」
 満足な笑みを浮かべる傷一つすらないアルと、それを抱えるようにして天井ギリギリまで飛び上がっている九郎の姿があった。
 虚像。そう、あれは偽物だったわけだ。しかし触れた感触は人肌だった。ならばいつ、その姿を変貌したのか。
 小さい顔ながらもティベリウスにはアルの表情の変化は理解できた。
「虚空に幻を生み出す鏡だ。九郎曰く変わり身の術らしいがそんなものはどうでもいいこと」
 そう、いつからではない。最初から偽物だった。鏡こそが偽物。幻像を視覚に訴えかけ、脳を侵し、五感すらも操作していたのだ。
 それが魔術。アル・アジフが行使する魔導書の力だ。
「……さて」
 それは、ニヤリと。
「妾をどうすると?」
 嗤った。
「クッ!」
「恥ずかしながら穴という穴は全て九郎に捧げておるのでな。貴様なんぞに与える隙なぞないわ」
 その言葉に九郎は苦笑する。今、口を挟めばアルのペースが乱れるのはわかっている。
 いや、本当に恥ずかしいばかりである。
「九郎と違って妾は頭脳派でな。策を弄することなど当たり前。妾が敗走するなんぞ未だかつてなし、これからもなし。よって」
 勝ち誇った顔で、自分の存在を全世界に知らしめるように、アル・アジフは唱える。
「光差す世界に、貴様のような愚物はいらぬ。裁判もいらぬ」
 顔は笑みを、しかし紡ぐ言葉は冷血。
 神は時に無慈悲である。それを、代行者はその身をもって証明していく。しかしそれを恥ずかしいとは思わない、むしろそれが正解である。何故ならば、神も所詮自己中心的主義なのだから。
 だからこれは横暴でも卑劣でもなく、単に己の欲望に従っているだけ。最後にはそこに辿り着く。
「告げる。汝は、死刑」
 緑色の魔力が二人を包み込む。
 増大な魔力。包む魔術文字。囲む魔術回路。その全ては難解で流れる速度も異常。
 しかし二人にとればそのようなもの苦しみにもならない。慣れ親しんできた言語であり、また慣れ親しんできた二人だからこそ簡単。
 頭の中を駆け巡る現代では読むことの出来ない文字。
 その全てが九郎の頭の中で分解、構築、発動していく。
 アルもそれにあわせて魔導書としての流れを調節、統合、詠唱していく。

「ヒラニプラ・システム発動」
 ――――access.
「言霊を暗号化」
 ――――break.
「ナアカル・コードを構成」
 ――――complete.

 誰が紡いだ言葉か。九郎かアルか、それともここにはいない誰かなのか。
 それでもその言葉は会場全体に響き渡る。張り詰めた世界は徐々に緑色の世界を構成していき、展開する。

「光差す世界に 汝ら暗黒 棲まう場所無し」

「渇かず飢えず 無に還れ」

 刹那、二人を包んでいた緑色の球体から一人、大十字九郎が飛び出す。
 大きな緑の球体をその右手に、風の流れと同化してその速さで敵へと突貫する。
 静かに、しかしその威力は強大で。
「斬れぬならば全てを包み込んで破壊しよう。蟲ケラには勿体無い待遇だ」
 アルの声が聴こえるがどこからするのかわからない。残された球体からのようにも、九郎の傍からにも聞こえる。
 しかし誰もその言葉に耳を貸していなかった。目に映るは大十字九郎の神々しさ。
 魔を断つ剣を持った、神の如き姿。
 そしてその決断。




「レムリア・インパクト」




 ―――世界が光に満ちていく。
















「不覚、逃げられてしまったか。最後の最後で転移魔術とは。奴ら、死に物狂いで戦うと思っていただけに考えてなかった」
 舌打ちをしてアルは顔を顰める。今にも地団太を踏みそうな彼女の頭を九郎は軽く叩いて彼女を落ち着かせようとする。彼女の性格上、無意味の感はあるが。
「いいっていいって。結局姫さんは護れたんだ。任務完了、だろ?」
「いいわけなかろう。汝、依頼料を貰わないというのは依頼を破棄したも同然なんだぞ。……ハァ、これで我が探偵事務所はまた赤字だ。渋々あの胸デカ悪夢の依頼を承諾したというのに、これでは埒が明かぬではないか」
 口を尖らせてブツブツと文句を言うが、アルもアルで仕方ないと思い始めているのであろう。それ以上は溜息を吐くだけで何も言わなかった。
「それよりも九郎。汝の魔力消費はどうだ。前回の反省も活かして通常活動に支障のないように魔力供給には気を使ったのだが」
 その言葉に、ん、と呟くと自分の身体のあちこちを動かしてみる。
 指は動くし、地面を踏んでいる感触はある。視界も良好、聴覚も正常だ。
 少々体がだるいがこれはいつものことだ。あれほど巨大な魔力を発動すれば虚脱感を感じないわけではない。
「おう、大丈夫だ。それより―――――」
 アルの方向から一転、後ろを振り向く。

「この会場の荒れ具合はどうしたらよいのでしょう?」

 そこは廃墟になっていた。
 会場を包んでいたコンクリートの壁はティベリウスが侵入してきた上部だけではなく、会場の約半分まで破壊されていた。
 赤い絨毯は跡形もなく、床も黒く墨のようになってしまっている。未だにちりちりと焦げた匂いが漂ってもいる。
 上を見上げれば夜はとっくに過ぎてようとしており、真っ青な青空が徐々に見えかけている。朝は近い。
 パラパラと残ったコンクリートの屑が顔に当たる。少々痛いが気にしてはいけないだろう。何故なら、自分が行った結果なのだから。
 高価なものは一気に消滅。残ったのは数人の人間と難を逃れた机、そしてシャンデリア。売っても大した金になりそうもないものばかりが残ってしまったようで、心なし寂しい。
 壊された壁から注がれる風を浴びながら、九郎は自分が行った魔術の恐ろしさを通算何度目か味わい始めていた。そろそろ認識し始めてもいい頃合だが、何度やっても慣れないものは慣れないようだ。
 呆然とこの有様を眺めつつ、アルへと声をかける。
「なぁ、アル? もう少し抑えられない? コレ」
「何を言うか。何事も油断大敵だ。この程度の力の行使、許されずになんとする」
「いや、もう何も言いませんのことよ」
 肩を落とす九郎、だがそれを許すまじと落としかけた肩を叩かれる。
 冷や汗が背中を伝う。雪女にでも遭ったかのような瞬間冷却速度。この恐怖は史上最大であり、生涯最大であろうことを九郎は身をもって感じていた。
 心で念仏を唱えながら振り返る。
 そこには―――満面の笑みを浮かべた覇道瑠璃の姿。
「あ、あはは。ひ、姫さん。ご機嫌麗しゅう。とりあえず『黒き聖域』は追い払ったから俺たちはこの辺で―――」
「いえいえ。そんな逃げるようなことをしないでください。お礼もしたいですし」
 瑠璃の言葉にアルは感嘆の声を上げる。そのような言葉、予想すらしていなかったのだろう。
「ふむ、お礼とは小娘も粋なことするな。九郎、遠慮せずに受け取ろうではないか」
 何も分かっていない魔導書はドレスを正しながら答える。純粋無垢なのは時に信頼を裏切る傾向がある。
「はい。小娘という言葉は些か気にはなりますがアルさまも御持て成しする次第です」
「どうやら妾の力がよくわかったようだな。よいよい、こちらも今までの無礼を謝るとしよう」
 かんらかんらと笑うその姿は本当に何も分かってはいない。いや、一生分からない方が彼女の身のためなのかもしれない。
 意気揚々と歩くアルと歩調をあわせて隣に連れ添う瑠璃の姿は、まるで囚人を連れて行く刑務所所員のようでもあった。その先にあるのは電気椅子か十三階段か。
 扉の先を想像するだけで、今から不安だらけの九郎。とりあえず瑠璃に連れ添われるのが自分でないことにホッとしておく。
 まだ見ぬ恐怖を胸にしながら肩を竦めていると、隣に金色の髪が流れる。
「大十字九郎」
 テリオンの佇まいは凛と輝くものがあった。あれほど戦闘の空気に塗れていたはずの彼はその美しさを一片も汚されることなく、立っている。
 それは隣に居るエセルドレーダも同じ。魔導書とその主は似るというが、その通りである。
「……テリオン、か。へっ、今回は引き分けだ。どうやら依頼料分働かされそうだしな。これじゃあ勝ち負け関係ねぇ」
 弱々しい笑みを浮かべる九郎をフッと可笑しそうに笑う。
「いや、我の負けだ。此度はいいものを見せてもらった。金ならば我が払おう。その程度の価値はある」
「いらねぇよ。俺たちは探偵だ。大道芸人じゃない」
 もらうのは依頼主からであり、敵に塩を送られるほど金がほしいわけでは―――あるけど言わない。
「フッ、貴公ならそう言うと思っていた。流石は我が好敵手。金に溺れる人間ではないか」
 言い終えると、何事もなかったように出口へと歩を進める。エセルドレーダも遅れぬように後をつける。
「では次の機会を楽しみにしていよう、大十字九郎。貴公といると暇が潰れる」
 靴音を鳴らしながら二人は扉に吸い込まれるように消えていった。どうやら彼らにはお咎めなしのようだ。
 何もしていないのだから当たり前なのだが。
 ふと、エセルドレーダの視線がこちらに向けられた気がした。一瞬の出来事で確信ではないが、その視線は冷静で痛々しいものであった。
 アルならともかく、自分自身思い当たるところがないので何とも言い難い。首を傾げるだけだ。
 どうせそう大した問題でもないだろう、と割り切って先程の感覚を軽く受け流す。
 扉が閉められた途端、九郎は苦々しくも微笑む。
「ケッ、人を暇潰しの要因にするなってーの」
 首を動かし、軽快に骨を鳴らす。これで終わり。今回は終わり。
 後は、瑠璃の説教を聞いて、後始末終わらせて、今後のことに頭を巡らさなければ。
 とうとう『黒き聖域』、『逆十字』に喧嘩を売ったのだ。対策を練らねば次は本格的にやられるかもしれない。
 覇道瑠璃や覇道鋼造が狙われないという確証もない。最悪、彼女らを囮に誘き寄せる策も考えねばならない。
「そんなことなけりゃいいけどな。……ん?」
 悪あがきもこれまでにしてそろそろ行こうかと足を踏み出した途端、九郎は彼らを視界に入れた。
「ウィンフィールド、と覇道鋼造?」
 別に執事と雇い主なのだから彼らが揃っていておかしいわけではない。
 だが、二人を包むその空気は何となく普段とは違って見えた。
 終わったのだから一息吐くのが普通なのに、彼らは未だに緊張しているようでその気迫を払ってはいない。
 ウィンフィールドの理由はわかる。
 傍目からも見ていたあの剣戟と拳戟。
 生涯最大の敵となる相手を逃してしまったことの悔しさは何もいえないだろう。
 それはあの侍風の男も同じ。最強たる敵を逃したことは悔やむべき問題に違いない。しかし、何が起きたかは定かではないが、彼もティベリウスが転移したと同時に消えてしまったのだ。
 果たしてそれはティベリウスが消えたからか、それとも――――。
「畜生。後始末とかそんな問題じゃないな、こりゃ」
 溜息。
「とりあえず、行くか」
 不安は後回しにして、今現在のことを考える。重要なのはどうやって瑠璃を押さえ込むかという問題。
 頭の中に過ぎる様々な展開が九郎を苦しめていく。胸が痛い。
 いつか胃潰瘍にでもなるのではないだろうかといらぬ心配を抱きながら歩を進める。
 そして、とうとう大十字九郎という探偵は地獄の門を渋々開いた。

















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