仮にもミスカトニック大学に入学したものならアーミティッジの名を知らぬ者はいないだろう。
 ミスカトニック大学にある図書館の館長であり、陰秘学を広めた人間といっても過言ではない。
 彼が勤める図書館はある種、異界。
 入るものは誰もが畏怖を覚え、感覚が麻痺する。世界が暗転し、気付けば数日間の記憶が忘却の彼方。
 それゆえ、そこに入るためには一定の経験や知識、精神力や魔力を備えておかねばならない。
 だが、それに見合う魔導書が閲覧できるのも事実。
 ミスカトニック大学陰秘学科に入るものが後を断たないのはそのせいだろう。
 陰秘学科は異界の存在であった。何せ大々的に宣伝などしておらず、学生は考古学科や鉱石学科などにして、世間にはその名すら秘密にしているのだから。
 そのような大学、図書館に在籍したアーミティッジの過去に一人、途轍もない事件を起こした途轍もない人間がいた。
 彼は魔術を真剣に学び、魔導書に触れるためにミスカトニック大学に入学。
 一見、一般入学者の入学目的とは同じように思えるが、彼のその意志は強かった。元々彼自身の魔力も強かったこともあってか、まるで綿が水を吸うように陰秘学を習得していった。
 その態度にアーミティッジも惹かれ、彼と何度か接見するようになった。知り合い、いや悪態をつける友人という立場にまで発展したように思える。
 またその魅力をかきたてたのは、彼の人種であった。
 黄色人種。
 無神論者の集まりだと思っていた極東の地、日本人だというのだから。
 それをある日、彼に思わず溢してしまったとき、彼の顔はなんともいえない苦々しいものだった。
「ったく。あんたはそんな目で見ていたんだな。そりゃ俺だって不思議だ。金のない、パンすら必死こかないと手に入れられない俺が資金面バックアップなんてものを手に入れてこうしてミスカトニックに入れるなんてな」
 そう、彼は元々そういった暮らしの人間だった。夢と希望を抱いてアーカムシティに来たものの、やはり入学金等は必要といった現実の壁にぶつかり途方に暮れていたのだ。
 まさかとある財閥から見ず知らずのはずの東洋人をバックアップするとは彼自身、思いもよらなかっただろう。
 それが更に彼の魅力だった。
 何故、何故、彼が。
 そうまでさせる彼の技術、素質に惹かれた。
 数年後、それは納得へと変わる。
 彼は見事に主席まで登りつめ、秘宝図書館への入館を認められたのだ。
 アーミティッジは自分のことのように喜んだ。彼は、やってのけたのだ。まるで予言。極東の地から来た人間はその手で魔導書を掴み取ろうとしていたのだ。
 その日は語られることがなかったが、アーミティッジの部屋で盛り上がった。逸る心を抑えきれずに感情をぶつけてくる東洋人。それを頷いて返す自分。
 そう、その日は、途轍もなく気持ちが良かった。


 あの事件が起こるまでは。


 彼、大十字九郎が退学するきっかけとなる事件が起こるまでは―――――








 そんな彼の今現在はというと。








「痛ぇ!! アル、もうちょっと優しくしてくれ!」
「何をいうか。このような小さな傷、男なら耐えてみせよ」
 こんな状態だったりする。
 泣き喚く九郎を無視して、魔導書ネクロノミコン――アル・アジフはピンセットで綿を掴み、彼の頬についた傷を叩いている。
「しかし……よもややられるとは妾も思っていなかった」
 彼に会ってかなり回数が増えた溜息を吐く。もう数えるのも億劫になってきたのだが、その数は増す一方だ。
 これも惚れた弱みか、と小さく呟きながら再び九郎の頬で腫れる傷を叩く。若干弱めにして、優しさを与えているのに彼は気付いているのか否か。
「いつつ。つったって仕方ないだろ。まさかあそこでバナナだぞ」
 顔を顰めつつ、九郎はその時を回想する。
 覇道財閥の件より数日間、九郎とアルは瑠璃の圧倒的な言葉攻めに遭い、更にこれでは依頼料に似合わないもっと働けと覇道家の掃除番まで承ることになったのだ。
 ひぃこらひぃこらとアーカムシティ最大の館ともとれる覇道家私有地を細かに清掃。箒、雑巾、ハタキ、バケツ。様々な道具を持ってあちこち掃除しまくった。
 もっとも働いたのは九郎一人であり、あの気高き秘書はというと「何故、妾がせねばならぬ。何も悪いことしていないのだから、九郎も我慢せずに放棄すればいいものを」と日本庭園を形どった、彼らの事務所の数倍ありそうな庭の片隅にある石にトスンッと座り込んでいた。
 何も知らない無垢なる少女はそれ以降も関わることなく、時には瑠璃に見つかり逃走劇、時には九郎を眺める傍観者、時には覇道の屋敷の中で繰り広げる口喧嘩など様々な問題を起こしていく。確かに辛かったが、平凡に暮らしていた九郎にはアルが輝いているように見えた。
 その疲労に満ちた数日間が終わり、事務所に帰ってきた際、アルは机の上にあるものを発見したのだ。
 それは、先日、九郎が犯行声明分と間違って発見してしまった果たし状だ。
 果たし状、それは相手に全力で挑むことを記した声明文だ。その書き殴った文字には強い怨恨の念も感じられる。
 さて、その差出人はと言えば、九郎が以前担当した事件――少女の添い寝――の依頼者の幼馴染と名乗る少年だ。
 その文字はあどけなく、読めない字もあるが、その気持ちは字を見て分かる。
 放っておこうかとアルも見放しかけたが、その果たし状に記された日にちを見て思いとどまった。
 今日。都合よく、彼の意志は今日に導かれていた。時間を見て更に驚き、果たし状の内容を読んで(その時は深くまで読んでいなかった)背筋が凍った。
 その事実を我が主に告げる前に悲劇は展開。
 勢いよくドアが開かれ、あれよあれよという内にソファでだらけていた九郎が、数人の子供に引き摺られるようにして事務所の外へと連れ出されてしまった。
 大の大人が子供に引き摺られるのも何だと思うが、思う暇もなく九郎の姿は事務所から消え、彼女は呆気にとられるだけであった。
 その後、傷だらけのゴミが帰ってきたのは一時間もした後だった。
「バナナ?」
「ああ、思い出しただけでも腹が立つ。あいつら、俺の感情を利用して罠を仕掛けていやがったんだ」
 イマイチよくわからない説明にアルは首を傾げる。
 これでも数年連れ添っている仲であり、彼の考えることは理解出来ると自負しているのだが、今回ばかりは曖昧すぎてわからなかった。
 苦言を漏らしているがその気持ちを捉えることが出来ない。
「落ち着け、九郎。子供に殴られ蹴られした屈辱は大いに理解できた。しかし、罠とはなんだ。あのような頭脳派に思えぬ輩がどのような罠を張ったというのだ」
 未だ息が荒れる九郎は彼女の言葉を聞き、少しは気が紛れたようでゆっくりと語り始めた。
「典型的で古典的な罠だ。やれ俺の女に手を出したな、やれこのロリコンめ、やれガイキチだ、やれお前の母親の顔を見てみたいだの言われたら腹が立たないわけがないだろう。つかお袋の名前出すな!」
 再び激昂。地団太を踏み始めたりして、本格的に子供の展開になってきた。
「……汝、まだ罠の内容が」
「ん、ああ。それで怒りが頂点に登りつめてさ、思わず拳が出たんだよ。そしたら奴らに向かう途中で視界が地面に向かっていく。これ、わかるか?」
「説明が簡略で下手だが。つまりは転倒した、と」
「理解能力がある我がパートナーに感謝しつつ。で、俺が何もないところでコけるわけがない。最後の最後でドジを踏むような人間でもない。では」
「何かに躓いた、か」
 その答えに、いや、と肩を竦める。
 どうやら頭が冷却してきて、自分の行いを思い返して呆れ出したのだろう。
「バナナで滑った」
 思わず吹いてしまった。
 確かに典型的で古典的だが、今更効果のあるような罠ではあるまい。視界を広げていれば絶対見えなくもない罠のはずだ。
 九郎の知らざる弱点を見つけたようで、アルは頭を抱えた。子供の喧嘩だ、これ。
「汝がそのような軟弱な視界の持ち主とは妾も知らなかった。よくその視界で探偵など始めたものだ」
 肩を落としつつ、治療を終えた彼女は救急箱に諸々の道具を仕舞い、立ち上がる。
「しかし、いい経験だ。言葉とは力と並び、強力な一打となる。その口調や言動に我を忘れるものも少なくはない。探偵と共に『黒き聖域』に立ち向かうのであればそのような基礎能力を鍛えねばな」
 一つ、勉強になったであろう、と軽く笑みを浮かべる。
 しかし笑っていられる問題ではない。
 『黒き聖域』。彼らを本気で敵に回してしまった。
 無論、これは九郎にとってもアルにとっても喜ばしいことであるのだが、何分早すぎた。
 準備もままならない状態で対立関係になってしまうなど計算上になかったアルは、これから大変になるに違いない。
 敵戦力の分析、今回出会った『逆十字』の情報、それらから考えていく自分たちの勝算。
 考えることはたくさんある。しかし、時間は悠長に残されてはいない。待ってはくれないのだ。彼らは今度いつやってくるのかわからない。
 明日か、明後日か。はたまた一週間後か一ヵ月後か。
 少なくとも近日中。彼らは我々に何らかの反応を出すはずだ。
 それすらも理解できないこの状況。鬼が出るか蛇が出るか。全てが未知数。
 顰めていく。アルの表情が自然と。
 だが、それを我が主に見せるわけにはいかない。彼のことだ、そのような顔を見せてしまえば過剰に反応してしまうに違いない。
 いつもは何事もないように振舞うくせに細かいところは突付いてくる。
 だからこそ、彼と向き合うときは感情を露にしないでおこうと。負なる感情は心に閉まっておこうと。
「さて、九郎。こうしてはおれぬ。色々問題はあるだろうが我等は我等の進む道を全うすべき。依頼はそれなりにあるのだから片付けるぞ」
 持っていた箱を所定の場所に置くと、心に秘めた感情を表に出さず、いつものように華麗に振舞う。
「それなり、ってのが耳に痛い」
 九郎はぶすっとした顔になるが、その視線はアルへと確実に注がれている。
 彼女が先行きの見えぬ不安に身を震わせているのは九郎自身も理解している。アル・アジフという少女はそれこそ感情を隠しきれない性格なのだ。
 笑うときは笑い、怒るときは怒る。
 どれだけ心の奥で隠しきろうとしていても、九郎の目は誤魔化しきれない。
 わかっている。これから何が起ころうとしているのか、九郎は身を持ってわかっている。
 『黒き聖域』内でも選りすぐりの魔術師、『逆十字』。
 彼らの魔力と魔術は今の九郎を遥かに凌駕するものだろう。潜在的に力のある九郎にしても、結局は最後の手を以ってしてでなければ捻じ伏せることは出来なかった。
 今回の戦いは自分たちを甘く見ていた結果だろう。次があるとすれば相手は本気を出してくるに違いない。
「……まったく、難儀なもんだな」
 やると決めたのに実際やると、不思議とやる気が削げてくる。
 目の前でその力を見せ付けられたのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。
(アーミティッジの爺さんに会ってみるか。縋るものはないよりマシだ)
 頭の中でかの魔術師を思い浮かべる。
 亀の甲より年の功という諺があるように、彼個人の魔導書の知識は九郎を超える。
 今回の事件を含めて『黒き聖域』に関する魔導書をアーミティッジが知らないか訊いてみるのも一考とした結果だ。
「何をしている、九郎。今回は汝の狂言によって依頼料はもらえなかったのだからな。汝自身が働かねば妾も何も出来ぬ」
 やはり彼女は表情に感情を出す。アルはいかにも怒っているという顔で腰に手を当てて九郎の前に立つ。
 とりあえず、今は我が身を心配する他ない。アルの言ったとおり、赤字が目に見えているこの状況では働かざるを得ないだろう。
 アーミティッジの謁見は暫く先の話と割り切り、九郎は立ち上がろうと床を手につけた。
 途端。

「いやいやいやぁ。聞いたよ聞いたよ、探偵くん。依頼料をいただけなかったみたいだねえ」
 怪異が来た。

「にゃわっ!」
「ひ、ひぃぃぃ!!」
 声が事務所に響いた瞬間、二人の反応は恐怖に満ちていた。アルは体を震わせ、九郎は手で地を蹴るという荒技を成し遂げソファの裏へと身を潜めていた。最後「ぐるぁッ」という声が聞こえたが周囲は無視の方向。
 そう、彼らは決定的なミスを犯していた。
 元はといえば、こんな貧相な探偵事務所に格が違う覇道財閥の依頼を持ち出した、仲介役は一体誰だったのか。
 それは―――事務所兼自宅を構える建物の大家、ナイアである。
 家賃を払わない彼らにせめての情けで、仲介した依頼を成功報酬すら得ずにして帰ってきたというのに彼女は笑みを浮かべるのみ。
「いけないな、いけないなぁ。僕は君たちのことを最大限に考えてあげて仲介役に徹したというのにも関わらず、君たちはそれすらも跳ね除けてしまうのかい? これは本当に担保でも頂かないと気がすまないよ。僕だって生活がかかっているんだ。古本屋だけでは生計が立てないのだよ」
 その口調とは裏腹に彼女の表情は笑みを崩せないでいる。本当に楽しそうに、愉快に笑っている。
 全然気にした様子もない彼女の視線の先には、打ち震えている無垢なる少女。アル・アジフ。
「い、いやだ。近づくな悪夢。どうあろうと妾の身は妾自身の為にある。この身体は妾が真に認めたものの為にあるものなのだ。そ、そんな訳の分からぬ下郎共にやる身体ではないわっ!!」
「うんうん。そうやって知識があるのはいいことだよ。嫌がる君の姿に飢えた獣は咆哮をあげるだろう。大丈夫さ、後に嫌といいつつ身体ではという風になるさ。うん? いいことじゃないか」
「く、九郎! 前のように妾を助けてはくれぬのか!」
 その言葉に当の本人は、
「……すまん、アル。今度ばかりは出張出前で稼いできてくれ」
 ソファの影から手を振っていたりする。
 しかも名残惜しげに薄汚れた白いハンカチを翻しながら。
「こ、この―――――」
 その醜い主の姿を見て、アルの顔は紅潮していく。
 赤く、赤く、真っ赤に。
 体は震え、拳を強く握り締める。
 彼女が纏う空気は魔術の渦の如く、肉眼で捉えるほど鮮明に見ることが出来そうだ。
 それほど彼女は怒っている。
 やっぱりアルはすぐ機嫌がわかるよなぁ、と来たる雷に備えるように頭を手で押さえながら考えていた。
 そして、


「大うつけがぁーーーーーー!」


 怒りの鉄槌は振り下ろされた。








 そこは暗闇。
 まだ暗黒にもならず、光がうっすら見ることが出来る陰の場所。
 しかし、そこは母の胎内にいるかのように安らかで温かみのある空間である。
 その部屋を囲む壁は、果たして壁としての機能を持っているのか、時折胎動しているがそれこそ母の中にいるようで心が落ち着く。
 耳では捉えることの出来ない動きに身を寄せながら、時は進む。
 暗闇の中、発する声。
「……どうして拙者を逃すような真似をした」
 声は鋭利な刃のように鋭い。緊迫とも緊張とも取れるソレは、今すぐにでも殺気に変わろうというものだ。
 うっすら窺える光が捉えるのは、剥き出す犬歯。
 咆哮をあげかねない口は行き場をなくして、喉を鳴らすだけで済んでいる。
 そんな狼を宥めるように、飄々とした声が答える。
「逃がしたのではない。状況の確認のために呼び戻しただけだよ。では何かね。キミはあのまま勝てたとでもいうのかね。あの魔術師たちに」
「魔術師と魔術師が戦うのは道理ではないか。貴様がそのような態度でいれば、いずれ奴らは付け上がる結果になる」
「ふむ。しかし、しかしどうかね。私も驚いたが、君も驚かなかったわけではなかろう。“あの”大導師が生きていたのだ。無論、君のような猛者がかの人の強さを知らぬわけではないだろう」
 答えつつも、笑みを隠していない。
「―――貴様の表情ではまったく驚いたようには思えぬがな、ウェスパシアヌス」
 そうかね、と軽く喉を鳴らすと隣で黙している肌もろとも闇に溶け込みかけている男に声をかける。
「ではキミはどうかね、アウグストゥス」
 問いかけられた彼は、すっと視線を赤毛赤髭の男――ウェスパシアヌスに向ける。
 表情はまるで無く、いや、あまりの出来事に感情をなくしているともとれる。
 彼はゆっくり、ウェスパシアヌスと先程まで話し相手であったティトゥスに目を泳がせてから、何が、と更に問うた。
「だからキミはどうかねと訊いたのだ、我が友よ。大導師が、我々が策略と戦略と模索と工作を重ね重ねてきたものを跳ね除けて、目の前に出てきているのだ。魔術師とて、大導師とて人間ではないか。……あいや、ティトゥスは違うのであったかな」
「拙者に死合を申し込んでいるのであれば受けて立つが」
「ハハハッ! いやいや、そういえばティベリウスもカリグラも同様であったな。キミだけを特別視して悪かった」
「……調子が狂う。今日は刃を納める」
「有り難いね。では、どうかね。親愛なる友よ」
 ニコニコと邪気の塊が垣間見えるが、どうでもいいのか、顎に置くだけでそれに返答する。
「私もわからないが、確かにこの手で大導師を捉えたのは今も覚えている。だが、現状は先刻見たとおり。ではアレはなんだったのか、虚像か、はたまた影武者か」
「……冷静な答えだな、アウグストゥス。貴様なら存外に驚愕すると思っていたのだが」
 冷静すぎる返答が逆にティトゥスを驚かせていた。
 だが、アウグストゥスはあたかもそれが当たり前ではないのかと首を傾げた。
「元より大導師が謎だったのは皆まで言うことはない。それを今更にして再認識する必要もまたなし。ならば驚愕という表情は無意味に等しい。今、考えるべきは今後の対策、大導師の行方。そして―――」
 そこで息を吸う。
 沈黙した空気の中、アウグストゥスはフッと目元を固める。
「大十字九郎という探偵、否、マスターオブネクロノミコンたる魔術師の詳細だ」
 一気に変わった場の雰囲気に、ティトゥスは顔を引き締め、ウェスパシアヌスは口端を歪める。
 母なる胎内は突如として冷酷な牢獄に変化。
 胎動していた壁は今やこの場に居る者の胸の鼓動を具現しているようであった。
 鼓動がやや早くなる。壁ではなく、間違いなく己の胸が。
 あまりにも閑静としているため、その鼓動すらも外に放出されてしまいそうな中、やっと動きが見えた。
 まずは嗤い。
「しっかし、バッカだね。いや、馬鹿を越えるチョー馬鹿ってヤツ? 特にティベリウスなんて相手の力量、見誤ってツッコんだんだろ? 負けるの当たり前じゃねぇか。馬鹿すぎ馬鹿すぎ」
「馬鹿という方が馬鹿だと聞いたことがアル」
「うっせーな、カリグラ。てめぇ、ガキか?」
「ガキはおま―――ヤメロ、ハンマーはヤメロ。砕ケル。主に骨」
「全部、骨じゃあ! てめぇわぁ!!」
 まるで子供の喧嘩のようにハンマーを両手で振り回しているのは、本当に少年である。
 闇に溶けることもなく、まるで自己主張するかのように全身に光沢が輝くアクセサリーを施している。いわばストリート系といえばいいのか。
 彼らはファッションで自己主張するが、彼――クラウディウスは己の力で主張しているようにも思える。
 対するギリギリのところでハンマーを避けている大柄の男。彼はクラウディウスと違って、年月をこなしている。
 だが、彼もやはり異形の格好をしていた。先程、ウェスパシアヌスが述べた。『ティベリウスもカリグラも』。
 ティベリウスは体が蟲で出来ていた。中身は怨念。素体は死体。
 では、カリグラは。
 彼もまた死体。ティベリウスの顔が蛙だったのに対して、カリグラは骸骨だった。
 その顔は一般の人間が見たら震えるに違いないのに、年場のいかないクラウディウスはまったく気にしてはいない。
 東奔西走、右往左往している二人に対してウェスパシアヌスはその赤い髭を擦りながら、鷹揚に笑った。
「いや、これはまたいい見世物だ。喧嘩するほど仲がいいというのはどこの言葉だったかな、ティトゥス」
「知るか」
「そこッ!! 和んでんじゃねぇ! ブッ殺すぞ!」
「わー、こわーい。キレる若者大流行ー」
「黒人! てめぇはもうちっとやる気だせ! あとプライド!」
 一気に場は和やかに。
 しかし、これが意外にもいつものことなのである。
 世の中に広がる険悪なイメージとは裏腹に『黒き聖域』の『逆十字』は結構アットホームなのであった。
 そんな中で年若いせいか、苛められ役にされているクラウディウスは舌打ちをすると諦める格好で座り込んだ。
 これ以上口答えすると、更に場が崩れることを既に理解しているからだ。
 しかし、たったそれだけでクラウディウスの嗤いが消えようものか。
「けど、負けてもらってせいせいしたぜ。ティベリウスがやられなきゃ、“ごちそう”はいただけないからな」
 そう言うと、舌をベロリと出す。
 赤々と伸びる舌には唾液が滴り、妙に淫靡な印象を受ける。だが、それに見蕩れてはいけない。見蕩れることは確実に死を意味する。
 彼らと立ち向かうためには、一刻の猶予も許されず、一刻の躊躇も許されない。
 まさしく真剣。迂闊に触れると傷を負う。死を伴う傷すら負う危険性も持つ。
 少年ならぬ、その意志の強さにか、ティトゥスはフッと笑みを浮かべる。
 意図的ではなく、自然に。
 当の本人であるティトゥスが目を見開いたほど、自然な感情。首を傾げるが答えが出るはずもない。
 否。違う。わかってはいる。
 真剣。そう、己が腰や背中に掲げているのは刀ではあるが真剣。
 迂闊に触れると傷を負い、死を伴う傷を負う。
 それをあの武道家はまるで木の葉のように舞い続けた。
 一刻の猶予も許されず、一刻の躊躇も許されない『逆十字』を相手にして。
 確かに最強の相手にして強制送還されてしまったのは忍びないが、この世が堕落と自己完結していた考え方を改めなければならない機会を得たのは素直に嬉しい。
 ―――ウィンフィールド、か。
 いつ訪れるかわからぬ再戦に胸を躍らせる彼に水を差したのは、やはりというべきか、ウェスパシアヌスだ。
「それで。その負け犬くんはどうしたのかね? いや、ヒキガエル―――転じて、退き蛙くんとでも言おうか」
「そこの座布団を引き抜かれたくなければその言葉は今後拙者の前では吐かぬことだ」
 溜息を吐きつつも、胎動を逃れている柱に背を凭れさせる。
「ティベリウスは自室で意気消沈としている。先程呼んだが、返事無し。気配はするので所在ではあるだろうが。……しかし、ここまで落ち込もうとは。彼奴も心は人間だったということか」
 ティトゥスは彼が自室に入っていくのを見ている。
 あの時の彼の顔は今にも死にそう――元から死んでいるが――で蒼白とした色でよろよろと入っていったのだ。
 『逆十字』という選ばれし魔術師は、任命以降、負け知らずであった。
 幾十も、幾百も、幾千も、幾万も、敗北なぞ知らなかったのだ。
 素質も、素体も、魔力も、魔術も、一級品の体質。
 そのような最高峰の魔術師は今日、初めて敗北の味を知った。誰もが一度は通る道。生涯、何をか理由を以って一度は経験する味。
 だが、ティベリウスは生涯初めての敗北であった。
 死体を愛す彼の相手は最後の最期まで死体であった。
 怨霊を受け止める彼の見取り人は最後の最期まで怨霊であった。
 そう、生者との接点などない。勝利も知らねば、敗北も知らず。
 魔術というものを得ても、施すのは死者に対してのみ。例外、蟲。
 宝の持ち腐れと罵られようが、彼はそれが最高だった。それを行うことこそ歓喜であり驚愕であり憤怒でもあった。
 ゆえに、虚無感など知らない。
「―――さて、ティトゥス。キミはとんだ勘違いをしているようだ」
 喉を鳴らすは赤髪赤髭。鋭い視線を送るティトゥスをゆるりと柔らかな笑みを浮かべる。
「意気消沈? まさか。キミは本当に最後の最期まで見取ったのかい? ではそんな考えなど浮かばないはずだ。彼を誰だと思っている。道化師・ティベリウスだ」
 それが、という彼の表情にニヤリと口元を緩めた。
「道化師は、笑うことしか知らぬのだよ」
 これがどういうことかわかるかい、と問いかける目つきをするウェスパシアヌスに対して答えたのは、意外にもアウグストゥス。
「笑うことしか知らぬものに、悲しみなどない。歓喜の真逆は悲哀なのだから、か。……これまたくだらない称号と機転を働かせたものだな、ウェスパシアヌス」
「ハハハッ! 道化は道化らしく生きるものだろう? 今も彼は部屋で笑っているはずだ。どう攻めるか、どう責めるか模索しているに違いない。しかし、それでこの基地内を暴れまわっては困る。ふむ、また二人に頼まねばならないか」
「うへぇ。今度はどこの女を連れ去る気だぁ? 今度は一発で引き当ててくれよなぁ、この前なんてアイツに合う女を捜すのに十カ国以上回ったんだからな」
 こういった時に実働部隊であるクラウディウスはやる気を一気に失う。隣のカリグラも同じだ。
 だが、それにウェスパシアヌスは首を横に振る。
「その辺りは大丈夫であろう。何せ、今回の目的は覇道瑠璃。彼女を自由に出来ると思って飛び出した彼なのだ。ゆえに」
「―――島国まで直行? ぐっはーっ! やってらんねぇ!!」
 思わず地べたに寝転がる少年だが、既に脳内ではそこまでの転移魔術の術式を構築し始めている。ものの数秒で発動直前まで紡ぎ上げる。
 やり方は今まで同様、脅すなり軽い言葉をかけるなり魔術執行で強制的にするなり、多種多様で行う。
 己以外は虫同然と考えているクラウディウスにとって、人間、特に魔術を持たない人間を連れ去ることには特に何の感情も浮かばない。
 今回の覇道瑠璃拉致誘拐計画も、彼にとってどうでもよかった。
 別段拒否するつもりもなかったので賛成に一票を投じたに過ぎない。いわゆる無気力に近い。
 だからこそ、今、彼の頭の中の問題は覇道瑠璃同様もしくはそれ以上の少女を連れてこなければいけないということだ。
 こういうとき、恋愛に疎い自分を呪う。生まれてこの方、女性に興味を持ったこともなかったのだ。
 覇道瑠璃以上と言われても、彼女がそれほど美しいとも思えない。どうするか。
「…………カリグラの野郎も役に立ちそうにねぇしなぁ」
「何か言ったカ?」
 無視。
 そこでやっとアウグストゥスが気合を入れたように視線を回りに泳がせる。
 回りも気付いたのか、キッと真剣な顔つきで彼の方を見る。
 やや時間が流れ、沈黙を断ち切るようにアウグストゥスが口を開いた。
「とりあえず、当面、表立った活動は控えることにする。クラウディウス、カリグラ両名は渡日を。ティベリウスの贄を得、召集がかかるまで日本で大十字九郎の身元を探れ。 ティトゥス。お前はアーカムシティに残り、大導師の行方を探れ。戦おうとするな。気配をたって探れ。ティベリウスも回復後、そちらに向かわす。ウェスパシアヌスは内部にて情報収集。この地での大十字九郎・大導師・以下計画の邪魔になるものの詳細を洗え。 ―――以上、全ての総括は私、アウグストゥスが責任を持つことにする。全ての情報をここへ」
 バッと上着の袖を翻し、天を貫くかのように腕を伸ばす。他の者も同様、同じ行動を。
 アウグストゥスは瞑っていた目をゆっくり開き、口元に笑みを浮かべる。
 歪む。
 そして声高らかに宣言する。




「全ては我等が『C』のために」
















「――――ところで、何故鍋を囲いながらするのか」
 ティトゥスが崩す。
 彼の目の前では、彼以外の4名の『逆十字』が四角い机を囲って鍋を作っていた。
 ぐつぐつと煮込む鍋の中は、肉団子なり蟹なり麩なり豆腐なり鯛なり糸蒟蒻なり柚子なりその他諸々が入れ込まれていた。土手鍋だか蟹鍋だか焼肉だかわからないごった煮鍋を敬称するのであれば、ちゃんこ鍋で十分である。
 蟹の中身を綺麗に掬い取っているウェスパシアヌスは、彼の言葉に疑問の声で答えた。
「美味しいぞ?」
「……何故、鍋という和式ぶった料理を洋式の貴様らが食べているのかという問いだ」
「失礼な。料理は万国共通。そういった時代錯誤の考え方が美味しい料理を逃すことになりうるのだ、っとカリグラ、それは私の肉団子だ」
 まるで話を聞こうとしないウェスパシアヌスは放っておくとして、望みとなるアウグストゥスの方に目を向ける。
 そこで後悔する。
 これを企画したのはアウグストゥス本人だということに。
「何を呆けている、ティトゥス。お前の夕飯がなくなるぞ―――ああ、クラウディウス。まだ肉を食べてはいけない。出汁が肉に染み付いていないからな。カリグラはもう少し火を弱め、1分後再度強火へ」
「黒人ッ、てめぇ鍋奉行かよ!!」
「…………本当に貴様らは何人だ」
 ティトゥスは肩を落とす。
 頭痛もしてくるが、今更諦めもついているし、腹が減っているのも事実。
 その足は確実に四足の机へと向けられていた。

「いや、しかし本当にティベリウスがいなくて助かったぜ。アイツ蟲だもんなぁ。鍋に蟲が入ったら間違いなく“ごちそう”が不味くなるし」
「いやいや、本当に。今回は大十字九郎とやらに感謝をば」
「アグアグ」
「さて、酒は日本酒でいいか?」
「……なんでも揃ってるのか、ここは」

 こうして『逆十字』の穏やかな夕飯は続く。
 電気つけろ。
















...1 page out.

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