米国、マサチューセッツ州の地方都市であるアーカムシティ。
 その中に一際目立つ時計塔のごとき建物が存在する。その時計塔も含め、アーカムシティの学問的中枢を担う辺り一帯が、勉学を学ぶ者として知らぬ者はいないとされるミスカトニック大学である。
 文学的、数学的、医学的、評論的、歴史的、考古学的―――様々な知識がここに集うといっても過言ではない。
 よって言葉や文化、肌の色を越えてやってくる者も多い。同じ知識を学ぶ者同士、人種など比べるものに値せず、肩を並べて協力や競争を行う。
 Tower of Babel―――まさしくそこはバベルの塔の如く。
 知識を吸収した学生たちは、卒業後、それこそ多種多様の職業に就く。名立たる著名有名人の大半はミスカトニックの卒業生だ。
 それを隠したがる者も言えば、声高らかに宣言したがる者もいる。
 大学側はそれを止めようとも隠そうともしない。個人の自由、放任主義。
 そういった校風ゆえか、入学者はあとを絶たず、また目指すものも多い。
 ミスカトニック大学はいわば、学問習得者にとって『聖域であり、最終目的地』なのだ。
 『聖域』とは転じて隠れ家である。誰も近づかず、認められたものにしか与えられない場所。世に隠したい事実をその光で隠し切ることが出来る場所。俗物を払いのけ、悪しき者を滅する場所。
 ゆえにミスカトニック大学は『とあるものを隠しておくことに適した場所』なのだ。
 その名は、陰秘学。
 名の通り隠された秘術を教える学科。秘術の中身は魔術。悪魔の術。
 どうして魔術発端の地の欧羅巴ではなく、地方都市であるアーカムに魔術の学科があるのか。
 確かに欧羅巴、かの倫敦にも魔術を教える学院がないこともない。時計塔と名指される地は魔術師にとれば有名だ。
 だが、この学院は教えることよりも研究に力を注いでいる傾向があり、一から学ぶことはほとんどない。
 それに比べ、ミスカトニック大学は根本の根本、基礎中の基礎から教授する。生徒側に立った学び舎。
 そのミスカトニック大学が陰秘学を重要視し、秘術にする所以、それが―――ミスカトニック大学図書館だ。
 図書館といえど、その保管量は只者ではない。魔術の基礎から、発展、応用までの魔術本。それに関する研究書、参考書。それを織り交ぜた俗物的な小説。
 そして―――魔導書。
 多大な貯蔵量に管理する者には、根を上げる者も多い。
 だが、現在の図書館館長、アーミティッジ・ヘンリーは疲労の声を世間に漏らすことなく館長として、そして門番として立ちふさがる。
 もし彼が快く、入館許可を与えるとすればそれは―――――。
「よくぞ、このような偏狭の地まで来たものだ。君という人物に会えて私は嬉しいことこの上ない」
 木造のしっかりした椅子に腰を預けている彼こそ、アーミティッジ本人。
 彼は老いた体でありつつも、纏う空気はまだ若々しさを醸し出しながら、笑みを浮かべる。その視線は自分とは反対側の窓へと。光はそこから漏れていて、昼の強い陽射しは窓際を暗くする。
 そして、暗闇から声がかかる。
「偏狭の地とはアーミティッジ老ともあろうお方が発する言葉ではないな。所詮、私は隠れの身。歓迎されるほどじゃない」
 声はまだ若い女性のものだった。姿は見えないが理知そうなイメージが脳内に入り込む。
 それほど彼女の声には氷のような鋭さと冷静さを帯びていた。
「確かに。しかし、よく君が術式と結界から軽々しく抜け出したものだ。何か、問題でもあったかね?」
「別に。今では些細な事件ですら小耳に入る時代になったからね。それを少し確かめに来たぐらいさ。あれは私の建造物でね。少し力を入れていた作品だった。それを破壊されたと聞けば見に来るのは製作者として正しいだろう」
「成程。それで結果は?」
「さあね。私は深く入り込むつもりはないさ。歪んでいる空気と歪んでいる世界はかなり嫌いでね。どうやら抑止力は既に存在するようだし、わざわさ輪廻の枠に入るなんてこの体が壊れるのを軽々しく承認するようなものだ。それに、私自身も何かと忙しい」
「では、すぐに発つ、と。それは残念だ。“小さな魔術師”について久しぶりに聞きたかったのだが。彼女は元気かね?」
「あの小娘なら大木枯らせて、今では学院通いらしい。あれは特異ゆえにすぐまた消えるだろうさ。いずれ老の元にも来るだろう」
「生きて会えたらいいのだが」
「死んでも死にきれない老が言う言葉じゃないな」
「魂の転移を行う君の言う言葉でもないな」
 彼は喉を鳴らし、彼女は鼻を鳴らした。
 沈黙が流れる。しかし、お互いそれを苦にしない様子で思い思いの行動を取る。
 二人とも紫煙を吐き出す器を取り出すと、口元へ持っていき、媒体は異なれど火を熾す器具でそれを灯す。
 火を嫌う紙媒体が辺りを包む図書館において、それはかなりの禁止行為に思われるが両者とも気にすることなく口から煙を吹く。だからこそ、この二人はかなりの大物に思えた。
「それで、老はこれからどうするつもりだ。身近で起こった事件、しかも己の友人が関わっているとあらば見過ごす貴方ではあるまい」
 興味がない、と言いつつも彼女の口からは心配する語句が含まれていた。もっとも彼女は意識していないだろう。
 アーミティッジはそれを知りつつも指摘はしない。ただ事実を受け止め、脳裏に浮かぶ青年のこれからを思う。
 馬鹿正直で、義理に厚くて、何事にも熱く真剣に取り組んでいた東洋の名の青年。
 先日起こった『黒き聖域』の事件の詳細はアーミティッジの耳にも届いた。彼女が言っていたように何事も小耳に挟むことが出来るようになった現代。しかもアーカムシティ事実上の支配者になっている覇道財閥関連であれば尚更だ。
 新聞を眺め、彼が最初に目がいったのは見出しではなく写真だった。崩されたビル――正確には壁――を見て、アーミティッジは即座に悟った。
 これは、体術的な崩壊ではなく、魔術的な破壊だと。
 『黒き聖域』が行ったのであれば、これほど粗雑な壊れ方はしないだろう。まさしくこれは未熟者の魔術師が行ったもの、有り余る魔力を抑えきれず発動させたものの仕業だ。
 確信に近かった。直感でもいい。アーミティッジはすぐにそれをかの黒髪の青年の魔力であると見極めた。
 彼がどのようにしてこの事件に関わったのか、どのようにして強力な魔術を解き放つことが出来たか、果たして魔導書を手に入れての発動なのか、そうであるならばどのような魔導書なのか―――疑問は多々あるがアーミティッジは内心喜んだ。
 あやつはまだ魔術師として諦めたわけではない、と。
「さて。私は待つだけだ。彼は彼の考えがあるように、私にも私なりの考えがある。所詮助言者でしかなく、表舞台に立たないのはわかっている。わざわざ死にに行くようなことはするまい。―――それは君も“小さな魔術師”も同様であろう」
「同感だ。元々魔術師は表舞台なんぞに立ってはいけないんだ。それに対してこの町は異様すぎる。魔術が所狭しと使われている。町の人間はそれを既に魔術と認めていて、今では恐怖としか見ていない。魔女狩りの再来だな。いや、魔女の復讐と言うべきか。ともかく、この枠内だけで行ってほしいものだが」
「飛び火は嫌う、と」
「面倒なことはやらないに限るということ」
 成程、と老人は口元を緩めると煙を吐いた。
 紫煙は両者の間を漂い、放浪しながら消失していく。だが、その流れはまるでその通り道が決められているかのように行く先は同じだ。
 東に位置するアーミティッジの煙は西へ、西に位置する闇から発せられる煙は東へ。
 お互いの煙が重なり合ったところでその煙は消えている。
 そこに、流動を促す力が注がれているよう。
「そういえば」
 本当についでといった感じで、彼女は口を開いた。
「この図書館を魔導図書館とする、要の魔導書は今尚ここに存在しているのか」
「勿論。風化もせず、今尚この大図書館の間に隠れている。―――案内しよう。君ならば見せても悪夢には取り憑かれまい」
 煙草を口に含んだまま、老は立ち上がり、煙が消失した場所へ向かって歩き始める。
 静寂なこの空気に靴の鳴る音はやけに響き、向かってくるそれに彼女は「いいのか」と問う。
「正統な者でしか認めない、我侭な魔導書なのだろ? 悪夢は見ずとして、強大な魔力を持った魔導書は少なくとも精神を破綻させる。私とて同様だ」
 これは謙遜ではなく事実。
 アーミティッジが軽々しく開放させようとしている魔導書は、並大抵の精神で手にとってはいけないものなのだ。この図書館に入館を許可された一等魔術師とてそれは同じ。むしろ、この大学で云われる一等魔術師は世界でいうところの二等魔術師以下でしかない。そのようなものが手に取れば結果は見るより明らか。
「それに、アーミティッジ老。ソレに触る貴方の体にも障ることになるぞ」
 取り出そうとしているのは、そもそも老なのだ。図書館館長と云えど、その魔導書を扱えるほどの魔力の持ち主ではない彼。
 悪夢を見るのはまず彼なのではないか。
 その問いに、疲れたような目で微笑を浮かべて答える。
「既に毒されている。今更泥を何度かぶろうが同じこと」
 彼女は黙り込む。闇で表情は窺えないが、苦渋の色を浮かべていただろう。
 図書館を管理する者にとって、本を手に取れないということは任務を放棄しているようなもの。
 たとえそれが呪われた、曰く付きのものであろうと館長としては本は子供のようであり、保護すべき大切なものなのだ。
 この魔導書とてじゃじゃ馬な娘を宥める親の格好で、触れているに違いない。それに対し、彼は嫌いもせず、諦めもせず、正面から向かっていった。
 何度も何度も何度も。だが、じゃじゃ馬は止められず、今尚彼に反抗している。
 ならば、今の状況はどういう風に説明するべきか。
 親が子の部屋へ階段を昇っている状態か、はたまた引き篭もっている地下へ降りていっている状態か。
 内容は変わらず、ただ立ち向かう彼の精神だけが違う。
 子はそれを感じ取ったか、鍵を掛けるように纏う空気を変化させる。そう、本には意識があった。
 重くて、息苦しくて、目が真っ暗になりそうで、頭が真っ白になりそうになりながらもその歩みは止まらない。
 彼の口元は笑っている。何があろうと彼は笑って済ませてしまうくらいに。
 近づくたびに、その圧力は強くなってくる。老いた体にとって、それはつらいものの何物でもない。それでも彼は笑っている。  何度も味わっている老体への違和感。本は何を感じ、何を悟ったか。
 言葉を発することの出来ない魔導書は問うことも不可能。ただ、見、推測だけで理解するのみ。
 だが、引き篭もる娘の推理はその全てにおいて微かな穴がある。小さな穴ならば予測で埋められるが、その穴は歪な穴であり湾曲していたり二手に分かれていたりする。凡そ人間の行動理念に乏しい紙媒体にとって、やはり老の行動は理解不能としか結論が結びつかない。
 度重なる邂逅の果てにあるのは、いつものように娘が根負けする結果がつく。
「――――これでも存在を知らせないようにカバーを魔術行使しているのだが、やはり最狂と謳われる者が書いたものは一筋縄ではいかぬな」
 頬に伝う汗を拭うこともせず、老はとうとうその魔導書に指が触れる。
 その書は既に千年という刻を越えているにも関わらず、周りを囲むハードカバーも紙面自体も汚れた様子がない。まるで書自身が汚れを嫌っているかのようだ。
 誰もが閲覧できる本を置いている図書館という場所において、その魔導書だけ厳重に施錠されている。そう、鍵をつけられているのだ。開けられないように。並大抵の人間ではその封印を解かれないために。
 老はゆっくりとその書を壁際の闇に手渡す。
 彼女は黙り込んでいたが、彼をこのままにしてはおれず、渋々受け取る。
 途端、彼女の目は見開いた。
 全身の毛が浮き上がり、体内の感覚神経が研ぎ澄まされ、己の魔術回路が警報を鳴らす。
 視覚が暗転し、触覚が異常に反応し、聴覚が遠くに鳴り響き、嗅覚が閉ざされ、味覚が麻痺を起こし始めていく雰囲気。
 しかし、彼女は悪夢も辛うじて見ることなく、精神の破綻も微量に留めることが出来た。それは何より彼女の精神力が並大抵の魔術師よりも高かっただけ。そんな彼女でもこの魔導書を開錠させることは出来なかった。
 背筋に冷や汗がつつ、と流れ落ちていく。
「……魔導書に拘る魔術師は外道だと思っていたが、これは認識を改めねばならないな」
 本能に従い、彼女はそれをアーミティッジに返す。
 このとき、彼女自身は数分ほど持っていた気分だったのだが、実際はものの数秒。時間感覚も麻痺し始めていた。
 顔を顰めつつ、口からその魔導書の名が告げられる。


「―――狂気なる詩人、アブドゥル・アルハザードが作りし魔導書『アル・アジフ』。その力、本物か」
「無論。写本『死霊秘法』『ネクロノミコン』にあらず。でなければこの大図書館は魔導図書館になってはおらぬ」


 だろうな、と琥珀色の瞳を持った魔術師はゆっくりと煙草を口に含む。
 普通の魔術師では得ることの出来ない魔力の流れがそこにはあった。年月を経ているものはそれだけで万物に対抗できると聞くが、まさしくこれは本物。また歴史を重ねたものは自我を得るとも聞く。もしこの書が擬人化することがあれば、その力に身を委ね、世界を壊滅しかねない。恐ろしかったが書は未だ紙媒体のままを保っている。封印も解かれてはいない。 もし、この魔導書を手に入れる者がいるとなればその者はどういった素質で経歴を持つ人間なのか。いや、人間なのか。己では扱えぬ未知のものであるがゆえに、その興味は絶えない。
「あの小娘にも同じ事をしてみろ、老。性格が極端に変化して面白いかもしれん」
「君は何事にも興味がないと思っていたが、意外とサディスティックなようだ。あのお嬢さんは私が興味を抱く少ない中の一人なのでな。それは遠慮させてもらおう」
「冗談だ。さすがの私も精神破綻者を創造することを推奨などしない。どこぞの魔術師は根源がどうたらで作ってしまっていたらしいがね」
 関係のない話だ流そう、と彼女は即座に言ったので老は首肯する。元より彼は彼女の日常に入り込むことはよしとしない。
 了承したのを確認すると一介の魔術師はふと先程思ったことを口にする。
「果たして、ソレを手にする者は誰だろうね?」
 答えは期待していなかった。現代においてソレを十分に扱える魔術師など聞いたことがなかったからだ。
 だがしかし、図書館館長は「さて」と意味ありげに笑みを浮かべていた。
 それを不思議に思わない彼女ではない。目を細め、「何か?」と問う。
「君も言ったではないか。此処は既に輪廻の海。巡り巡る混沌の渦。ならば、手にするのは外来の他人ではなく転生の刻に刻みこまれた人間だとは思わぬか?」
 老は年齢に似合わぬ、若々しくも苦味のある微笑で疑問に対し疑問で返す。
 つまりこのアーカムシティは一つの地方都市ではなく、一つの世界なのだと、一つの歴史なのだとそう言っていた。
 ははっ、と彼女は嗤う。
「確かに。この混濁の町は人と神話と不変を象徴している。不変とはつまり刻が閉ざされているということ。刻が閉ざされるということは場所が固定されているということ。 このアーカムシティは既に聖域化されていると。不必要な登場人物は初めから削除、または脇役扱いにしていると。貴方は言いたいのだな?」
「疑問に対し疑問で返し、さらに疑問で返すか。なかなか意地が悪い。ではここいらで回答を出そう――――是であり非である」
 お互い顔を見合わせる。その答えは彼女が予想していた答え。完全なる答えも用意はしていたが、ここで踏み入ると自身の存在をここで消去されかねない。
 深入りせず、興味半分で流すことが鉄則。
 だからこれ以上は何も言わないでおこう。

 ここからは私の出番ではなく、記されたアーカムシティという小説の登場人物が紡ぐ世界なのだから。



 そうして、琥珀色の魔術師は姿を消した。
 最後に言葉を残して。
「しかし、老。何度も歴史を繰り返されていると知ったとき、本人たちはどうなるだろうね」
 それに最後まで答えはなかった。
 彼女への見送りもそこそこに、彼は魔導書を元の位置へ戻しに本棚の群へと向かう。隙間はすぐに見つかり魔導書はやっと落ち着ける場所へありつけたと思ったか、意外にすっきり入り込んだ。
 ―――そう、そこに閉鎖への恐怖などありもしないように。
 書から手を離し、息を吐く。
 さて、では次の行動に入るとしよう。
 長い時間触れていた魔導書の反抗魔術を自我を保つことで払いのけ、いつも通り、昔からのままのアーミティッジに戻させる。
 もし誰かがやってきても変に思われないように。
 例え、観察眼が優れる相手であっても悟られないようにするために。
 息を大きく吸って、吐く。
 脳にある思考をクリアにさせていくと、それだけで気分が落ち着く。
 このまま眠りにつきたかったが、そうはいかせてくれないのが『彼』である。
 うっすら瞳を開けると口元を緩ませながら告げる。

「もし気付いても『彼』なら正面を切って逆境すらも払拭してしまう。『大十字九郎』とはそういう人間だ」

 運命の螺旋は今も稼動している――――。
















...interlude out

※interludeは本編の謎を提起させつつ、お遊び要素を踏まえたストーリー。全然関係ないメンバーが登場しているが、本編でも活躍の場はない。ないはず。裏設定扱い。もしくは脳内設定。

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