―――――。



 起

 人には成長という過程が存在する。
 それは誰しも経験することであり、この過程を遂行しない限り肉体的変化は訪れず、精神的進化も求められない。そう、成長とは肉体的にも精神的にも存在するものだ。
 ここで述べるのは肉体的成長。つまり歴史、もしくは年月の問題だ。
 人間は母たる胎内で育ち、時期を向かえると羊水と共に排出される。その後は環境要因、人的要因などによって性格が位置づけられ成長していく。幼児から少年へ。少年から青年へ。青年から中年へ。中年から老人へ。
 そして老年期をある程度迎えると人は息絶える。もちろん幼児期や少年期で外的要因によって息を引き取るケースもある。だが、今は死の問題ではなく、成長の問題を取り上げているので今回は省く。また、次回の講釈で。
 つまり人間は生きている以上、成長という過程は負うべき義務である。親知らずが抜けたり、膝の辺りが痛くなったりするのもあらかじめ誰かさんが人間を創造するにあたって作り上げた成長のチャイムなのだろう。「ここまで成長したんじゃよ、更に成長を重ねよ」とか。いや、まず創造主には人間が生きる意味を問いたいのだが、どうせ答えてはくれないだろうから心の奥にとどめておく。
 さて、要因なり義務なりと講義のようなものをお送りしたがオレが言いたいのは唯一つ。

 オレ―――今樫一八にも中学時代はあったということだ。


 まだオレが脳で数える程度にしか死体や『死に体』を見ていない頃。まだ殺人という情景に少なからず背筋を凍らせていた時期。
 既にその時から、今樫家は壊れていた。
 家庭の空気が暗い、というよりも家族そのものが暗かった。
 父親である今樫九はオレたちとの接触を出来るだけ避け、一人書斎に閉じこもってパソコンの画面相手に何かを打っている。会話をしていないのでその詳細は知らない。
 しかし、これでも平静を保っているのだからまだ良い。
 妹である今樫二七は本来の明るい性格からは一変、体の内部に闇でも抱えているのではないかと危惧するほど陰気な性格になってしまった。何も発せず、虚空を見つめ、その足は頼りない。
 最低限の世話はしてやっているが、昨日、とうとう無言で手を払いのけられた。それでもその表情は無のままだったのには何故か少し口元を緩めてしまった。
 何故こうなったのか。いや、理由はわかっている。たった一つの殺人事件がオレたちを壊したのだ。
 記憶遮断。
 かく云うオレはというと、思春期真っ只中で反抗期が重なり日々が鬱々としていた。
 部屋の中で篭るのも飽き、父親と顔を合わすのも嫌気が差す。頼りの綱のニナはあの調子だ。家族での会話などない。
 友人と言葉を交わすのも面倒くさかった。最初は空元気で振舞っていたが、次第に学校自体に飽き飽きして、早退もしばしばあった。
 いつしか不良扱いもされ、生徒指導室に呼ばれること数回、父親が呼ばれた回数も三回に上る。
 その度に叱咤や憤怒の声があがるが数分もすれば、別の部屋から教師がやってきて生徒指導の教師に言葉をかける。途端、教師は目の色を変え、オレたちをあっさり許した。
 どうせ『あの』事件のことを吹聴されたのだろう。馬鹿らしい。いっそのこと殴ってくれればよかったのに。
 黒々とした雲が空を覆うその日。

 オレはこの家を出ようと思った。




 承

 心地よい揺れに眠気を誘われながら、憂鬱な気分でオレは外を眺める。
 窓の外はオレの気分とは全く正反対の青空と青畑が左から右へと流れていき、少なからず気持ちをやわらげてくれる。
 人間の気分ってのは簡単に揺らぐもんだ、と少しあきれた。
 オレは電車に乗っていた。最低限の荷物とお金、軽く暇を潰せる文庫本などを鞄に入れただけの小旅行気分の準備だ。
 もちろん小旅行ではなく、家出なのだが、所詮学生の身。出来るのはこれぐらいだ。
 さすがにこれ以上、出席日数を減らすわけにもいかず、家出決行は夏休みを選択した。この時期ならば『青春18きっぷ』なるものが使用でき、電車を一日乗り越すことが可能だからだ。
 何も考えずに着いた町をうろつき回り、電車を乗り継ぎ、様々な景色を眺めていった。
 夜は無人駅を拝借して明かす。たまに訪れるご老体の温かい優しさは空っぽだったオレに少しずつだが、こちらの世界へ導いてくれた。
 そして、放浪三日目。
 また意味もなく、名の知らぬ駅で降りる。もう三日。五枚あった切符も今日を省けば残り二枚となる。
 別段感動も感激も起きぬまま、駅を出る。
 そこは海に近い、見るからに田舎という感じの村だった。
 潮風が鼻をつき、振り返れば青々と茂る木々の森。人影も少なく、現代では珍しい機械音のしない、静かな村だ。
 いや、静か過ぎると言ったほうがいいか。
 オレはここを折り返し駅と決めた。切符も残り少ないし、さすがに帰ることを考えないわけにはいかない。壊れても家族は家族だ。心配なんてしていないだろうが、ここ三日間でオレは全てを割り切ってしまった。
 無駄でもいいから、家族に混ざりこめ、と。
 反応されなくてもいい。無視されてもいい。貶されてもいい。払いのけられてもいい。
 オレはそれでも、そこにいようと。支えられる、誰かでいようと。
「莫迦、だな」
 家出をしてそれに気付くとは。
 この行動はそれと全く正反対だ。逃げて怯えて震えて泣いているのと同意だ。向き合え。現実を向き合え。
 そして――――死を直視しろ。認識しろ。認定しろ。観察しろ。鑑定しろ。
 事実を、現実を、認めろ。
 諦めろ。
「諦めた」
 馬鹿馬鹿しいことを考えるのを。
 そうと決まれば、この村を一通り見回して帰ろう。生涯最後となるであろう、家出の最終到達地だ。記憶に残しておくぐらいいいだろう。
 鞄を背負いなおすと、堤防付近を海を眺めながら歩く。
 吹っ切れると鬱々としていた感情が一蹴され、自然がこうも美しいのかと感傷に浸ってしまう。
 柄ではなかったが、こういう日もあっていいだろうと、気持ちを切り替え、口元を緩めて景色を眺める。
 ふと、目の前からやってくる人影があった。この村で会う最初の村人だ。
 女の子だった。見た目はニナより少し上かと思う。黒髪を肩口で切り揃えている頭には少し大きい麦藁帽子が。真夏にも関わらず真っ白い肌は着ているワンピースと同色で、一瞬裸で歩いているのかと錯覚してしまった。
 それより酷く目を惹きつけたのは、彼女が連れている犬であった。かなり大きい。かもすれば女の子を背に乗せて歩けそうなくらい大きかった。
 シェパードかレトリーバーか。ともかく大型犬の類だろう。
 女の子は虚ろな瞳でオレに近づいてくる。白いサンダルと白い犬が地面に触れ、ゆっくりと異色を発するオレへの距離を詰める。
 だが、女の子はまったく関心をよせず、スッとまるで幽霊のように流れる仕草で通り過ぎた。
 そう、幽霊のように生きている心地をさせない動きで。

 だからか。

 突然。

 声が響く。

『――――――』
『――い……―』
『こ―――……』
『…ら―――ぬ』

「――――な」
 おかしかった。殺人現場のみ、起こるはずの脳内井戸端会議が今頭の中でよぎった。
 これは過去、一番最初に殺人現場を――殺害の瞬間を――垣間見たときに現れた潜在能力。
 血や死臭、その他殺害に関連する全ての証拠物件を見ると突如として、オレの意思に関係なく発動する厄介な多重人格的幻聴。
 その声が、"途切れている"。完全なる言語で紡ぎ上げられる老若男女の言葉が既に台詞になっていない。
 まるで電波妨害を受けているかのごとく。
 こんなことは初めてだ。時間と場所を無視してコレが置きようとは。そうこうしている間にも井戸端会議は途切れ途切れで展開している。止まらない。
 既にオレはそれを理解することをやめ、迫り来る頭痛と眩暈を制御することに専念した。この井戸端会議、事件に有力なことを述べるが、副作用として人体に大きな影響を与える。今回は途切れ途切れのため、弱い頭痛程度で済んだが、最悪失神も免れない。
 堤防に背を預けて、ようやく落ち着いたところでオレはうっすらと目を開く。
 ぼやける視界の中で、オレは未だ現状を理解できぬまま、過ぎ去った女の子の方を見た。
 しかしその時には既に彼女は、白い犬と共に陽炎の中へと消えてしまった後だった。




 転

 その日の夜。
 宿無し金無しのオレは、駅を間借りさせてもらって一夜を明かすことにした。
 本当なら今日の昼からこの村を去り家への帰路を辿るはずだったのだが、妙な胸騒ぎと途切れた井戸端会議に違和感を覚え、今日はこの村に留まることにしたのだ。
 そして、手持ちの文庫本も読み終え、寝転がろうとした―――瞬間。

 異臭が、潮風と共に流れてきた。

 そう感覚したときには、思案するより先に体が動いていた。
 風の向き、臭いの濃さを頼りに夜の堤防を走りぬける。夏のじとじとした空気が肌に触り、不快感が走る。だがそれでもその走りを止めない。止めてはいけない。間に合わないと解っていながら止まってはいけないのだ。
 というか、何故オレは急いでいるのか。
 急ぐ理由が見当たらない。
 所詮はすれ違った程度の、見知らぬ女の子ではないか。
 その子に危険が及ぼうが、危険を起こそうが自分の知ったことではない。所詮は赤の他人だ。
 だが。
 だけど。
 それでも。
 オレは走っていた。
 走って走って息が荒れて、汗を流し、その汗に夏風が当たり体感温度を下げる。視界が狭まり、意識が遠のいても。足が痛み、胸が苦しくなっても。それでも走って走って。
 そして、見つけた。
 女の子はあの朝の情景と同じくして、白の肌を露出させ、日も昇っていないのに麦藁帽子を被ったまま突っ立っていた。

 赤黒い液体が飛び散る、肉片と肉塊の世界に。

 既に場は殺人現場とは思えぬ状態になっていた。むしろ虐殺や惨殺の類だ。
 そこら中に散らばる肉という肉、骨という骨、髄という髄、臓という臓。
 小指は血液が通らなくなって紫色に変色し、飛び出した眼球は視神経を連れて血の池に転がっている死体。
 頭皮を引き剥がされ白い頭蓋骨が見え、首の皮が延髄が覗くほど噛み切られている死体。
 女性を象徴する双丘の片方が空洞と化して、贓物が所狭しとぶちまけられている死体。
 逃げようとしたのかうつ伏せに倒れている死体。背中は見る影もなく、背骨だけでなく肋骨を露骨に曝け出している。まるで骨が肉を貫いているようだ。
 どの顔も恐怖、畏怖、脅威、絶望、逸脱、破滅、哀願、号泣、悲哀の色が浮かんでいる。
 しかし、その誰も彼も一切の容赦なくその息を絶たれている。願いも祈りも叶わず、ただ無残に無意味に成長を止めた。
 彼らはこれ以上成長はしない。肉体的にも精神的にも。
 止められた。静止された。
 そう、それは。

『夜は終わりを告げる刻』
『白い犬を赤い犬へ』
『彼の犬は従順なる隷属』
『しねしねころせころされろ』

 ―――胸に墓標のようにナイフが突き刺さった赤い犬、否、血塗られた白い犬の犯行だ。
 だが、犬がこれほど多くの人間を殺せるものか。二人や三人ならともかく、十を越える人間を誰にも邪魔されずして殺せるものか。
 見回すと恰幅のいい男が肩口から腹まで爪で切りつけられていた。傷口が深かったのか、それが致命傷になったと思われる。
 そう、例え田舎とはいえ、たかが犬に負けない力の持ち主はいるのだ。突然のことで驚きはあるだろうが、皆が皆、冷静さを欠けているということはあるまい。誰か一人、犬に飛び掛ったはずだ。
 理由は単純明快。
 途端。草を掻き分ける音が、獣の臭いを漂わせながら数多く耳に届く。
 視界を広げ、全域に渡ってその位置を確認すると四方八方にソレは確実にいた。
 赤。朱。黒。茶。斑。
 皮膚はそれぞれ異なれど、その本質は同じだ。
「一匹ではなく、多勢か。狂犬に慕われるとは、どんな性格をしている」
 狂犬共は徐々にオレへの距離を詰めていく。少女に近い位置に居るヤツらは彼女を守るように壁を作っている。
 どうやらオレは彼らに敵対意識を与えてしまったようだ。足元で散らばっているヒトとは言い切れない死体たちが何を仕出かしたかは知らないが、オレは無関係だ。しかし、それを理解出来る動物であるわけがない。もしかしたら見た者全員殺す役目を得ているのかもしれない。それならば納得がいく。既にこの場は殺戮空間。狂犬と少女による惨殺舞台だ。
 だが相手が悪すぎる。その意識を向ける相手を間違えている。
 既にオレは死を認めている。この死体も、まだ地上に魂が漂っている『死に体』も全て現実のこととして認識している。
 だから、この獣臭も死臭も鉄錆のような血の臭いも、嗅覚を自発的に麻痺させ、それを『自然』と化す。
 この散らばっている肉片や肉塊もトンデモナイ狂犬が揃いも揃っている状況も、視覚を自発的に肯定させて、それも『自然』へと作り上げる。
 ゆえにこの場は殺戮空間ではなく、『日常化された』空間。オレ自身をこの空間に適応させて相手と本格的に向き合う。殺人犯対人間ではなく、異常者対異常者として。
 それに少女も気付いたのだろう、体を震わせると、周りにいる狂犬共を退かせる。
 訝るように視線を少女に向けたが、彼らはそれに従い、ゆっくりとオレと彼女の間に道を作る。
 徐々に歩みがオレの方へと近づいてきて、ある程度にまで至るとそこで止まる。
「―――――――」
 そこで初めて目と目をあわす。虚ろな瞳ではあるが、その奥にある深遠の黒目は何かの決意を秘めていた。
「貴方は、誰」
 その声はこの異常な世界において、美しすぎた。凛と響く幼い声色は静かな夜に旋律として耳に残る。
 だからこそ、不思議な感覚だった。
 これは、人、かと。
「……本来なら名乗らされるのは嫌なんだが―――今樫一八だ」
「名前じゃない。貴方は、人なの」
 疑問系なのに関わらず、その台詞に疑問詞がついていない。まるで言語すら喪失してしまったようだ。
「この死体の数を見て動揺しないでいるはずがない。だって、みんなそうだったから。みんな、震えて怯えて泣いていたから。助けてって請いていたから。でも貴方はそれらとまったく違う。誰。一体、何。何故、ここにいるの」
 異常者は異常者を見抜くのが上手い。
 だが、違う。少女とオレでは根本的に違う異常が存在する。
 少女は主観的に異常と成り、オレは客観的に異常と成ったのだから。
「ならばどうする。オレも殺すか」
 首を傾げる少女。
「何故。何故同類を殺さなければならないの。貴方は別段何もしていない。村人のように愚かな行いをこの子たちにしていない。まだわたしを、人として見ている」
 どうやら異常な気配から既に同類と認定されたようだ。
 それを否定するつもりはない。結局は異常は異常なのだから。
「愚かな行い、だと?」
「そう。貴方も愚かな村人の行いをその耳で聴いて、失った子たちに哀悼の意を捧げてあげて。この人たちは―――ただ、野良犬だというだけで殺した。人々に迷惑を掛けるからっていって殺した。襲ってくるからって殺した。人が言うから便乗して殺した」
 とても悲しいことを言っているはずなのに、表情は変わらない。声色も変化しない。
「わけがわからない。生き物なのに。野良犬は殺されるの。保健所って何。何をされるの。何故危険なの。どうしてそう、いとも簡単に殺せるの」
 質問には答えず、オレは辺りを見回した。
 ―――ただ、それだけでこの子は殺害という行為を思い浮かべるだろうか。
 いくら現代において少年犯罪が多発しているとはいえ、精々彼らが殺せるのは一人だ。それ以上はどうやっても恐怖が伴って動き出せない。
 確かに彼女は異常者だ。しかし、この異常は少女本人からではなく、何か外的な―――。
「…………もしや、お前、狗神か」
 視線の先に、あった。
 神社のことはあまり知らないが、それでも興味本位で調べた資料の中にそれは書かれてあった。
 神社は何かを祭っている。
 家康、道真、軍人、海神、山神、天照、狸、狐。
 そして、狗。
「海の近くにあるから海神を崇めているかと思っていたが、まさか狗とは。よほど狗に関連した御伽噺か伝説があるのだろう。もしくは、妖怪譚か」
 少女は伏せていた顔をゆっくりと上げる。
 その瞳からは涙が溢れて、零れだしていた。その量は止め処なくぽたっぽたっと頬を伝い、涙は血の池に落ちる。異様な光景だが、それだけを見れば悲しんでいるように思えるだろう。
 しかし、その表情は変化がない。無表情のまま、彼女はオレを見つめていた。
「わけがわからない。どうして。今の今までわたしは彼らを護っていたのに。ずっと彼らの幸福と安泰を祈っていたのに。彼らはわたしの眷属を屠った。どうして。どうして簡単にそうするの。少しの躊躇心なく、彼らは邪魔だから殺す。それが何を表すのか本当はわかっているはずなのに―――」
「残念ながら動物信仰、アニミズムは昔に比べて衰退してしまったんだ。神社の役割も本来のものではなく、単なる祈願の対象になりつつある。お前も年月を経て生きているのならわかるだろう、彼らの願いが徐々に変化していることに。だから本当にわかっちゃいない。何を意味するか、村人を含めオレたちは全然わかっちゃいない」
 成績が上がりますように? 試験に合格できますように? ―――お前ら、村を飢饉に陥らせたと云われているヤツに何を祈っているんだ。神に祈る時間があるのならその時間を有効に使え。我武者羅に筆を振るって、脳に叩き込んで、神すらいらない己の実力を示せ。神が成すのはそういったものではない。人間の行く末と過去未来を高天原辺りから眺めているに違いない。
 少女――正確には狗神が憑依した女の子――は思い当たるところが多いらしく、無感情の顔のまま全身が震え上がった。
「そもそもどうしてその女の子に憑依した? 外見からして人畜無害っぽいが」
 訊かれて彼女は、初めて自身の体を眺め見た。
 この全域を真っ赤なペンキで塗りつぶしたような空間の中で、純潔純白な肌と服で覆っている彼女はかなりの異質でしかない。
 ここまで真っ白だと、まるで妖精か天使を彷彿させる。実際は堕天使だが。
「……この子は村人たちの中でも信仰に厚かったの。誰よりも動物を愛し、動物たちと心を通わせた。しかも彼女には『何か』を憑依しやすい体質にあった。簡単に言うなら『穴』があって、その深さは神さえも内包できるほど。だからわたしはそれを利用したの。彼女の純粋な心に乗り移って、自分の欲求のままに彼らを屠った。自己中心的な考えだけで動いて、この子のことは全く考えずに……」
 でも、と。
 微かに狗神の感情が触感でわかった。皮膚を撫でる空気が甘ったるい匂いと共に息苦しい感情を運んできたからだ。
 それは怒り。無表情な神が、全知全能の神が、のうのうと生きていた下等な人間に向ける最大級の激情。
「それでもわたしはやり遂げなければならなかった。彼らがやってきたことが何を意味するのかを、わたしは伝えなければいけなかったの。これ以上、同じことの繰り返しは嫌だから。動けないわたしの目の前で我が子を失うのは嫌だから。だから、殺した。身を以って示させた。……途中で、死んだら伝わらないことに気付いたのだけれど、もう後の祭り。堕ちた神は最期まで堕ちるのみ」
 元々弱々しい顔が更に弱々しくなる。
 こうして見ると、神ってヤツも案外人間味を感じてくる。
 特にこの狗神は無表情一点張りだったので、微妙に漂うくらいで感動すら覚える。
 ゆっくりと、オレへの言葉を終えるように、時間を掛けて狗神は口を開いた。
「―――此処の村人はこの子を除いて全員殺す。だから、早く、帰って」
 でなければ、最後にはオレすらも殺すと言いたげだ。いや、実際オレが『日常化』への転移を行っていなければこうして言葉を交わすこともなかっただろう。
 だからこそ、貴重な神との対談を綺麗な形で終わらせたかった。
「グノーシスだのマイモニデスだの悲観論だの楽観論だのオレには興味はないが―――狗神、お前の行いはオレから見れば尊敬に値することだ。堕ちることはない。むしろ、誇れ」
 物事には因果応報というものがある。何かをすれば何かが返ってくる。つまり、殺せば殺される可能性を秘めている。
 人間では当たり前とされていることだ。人間を超越している神がそれを実行して何が悪い。
 彼らは神に喧嘩を売ったのだ。その代償が跡形も残る死骸としてならば、まだありがたいと思うべきだろう。
 少女の返事はない。微かに頷いた気もするが確認することが出来なかった。
 何故なら。
「ひ、ひぃ…………っ!」
 獲物が来たから。
 その声に狗神と隷属である狂犬が即座に標的に体を向ける。
 気弱そうな青年だ。地面に自らの荷物をぶちまけながら、目の前の状況を判断している。ここで失神しなかったことには尊敬するが、しかしこの場ではそれが仇となる。
 その身に起こっているすべてを理解して、実感して、体験して、反応して、成長を止めてしまうのだから。
 既に狗神――少女の顔はオレには見えない。自分の周りに精鋭の獣を従え、獲物の周りに精鋭のケモノを揃えて目標に白く伸びる人差し指を指す。

 逝け。


 数分後。朱の世界に彼女の肌はやはり白かった。




 結

 時は過ぎ去り、家族間がやや緩和してきた頃。
 親父が「子供を拾ってきた」とのたまわりやがった。
 オレとニナが目を見開くのを完全無欠に無視を決め込み、体を横にずらして、その子が入るための道を作る。
 それはまるで、あの日の情景を見ているようで。
 入ってきたのは、一見してニナと同年齢のようだった。幼さが背にも顔にも滲み出ている。
 手入れされた黒髪を肩まで伸ばしてはいたが、よほど外の気温が高かったのだろう、汗で頬に髪の数本がくっついている。
 息も荒れ荒れのまま、入ってきた少女は大きな麦藁帽子を右手であげるとにこり、と笑った。
 そして、あの頃とは全く違った明るい声と健康そうな肌をした左手を天まで届くほど挙げて―――

「うぃッス! 皆々様、お初目にかかります! 姓は橋凪、名は渚。愛称はなぎーッス! これからとてつもなくご迷惑をおかけするかと思いますがどうぞよろしくッス!」

 言葉どおり、これ以降迷惑を掛けさせられることになる橋凪渚との二回目の邂逅だった。




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送