―――4.ネボスケロマンチスト

 遠坂凛の朝は、不定期である。
 早く起きるときは起きるし、極端に遅い場合もある。
 しかし体質なのか、それでも彼女は一度も遅刻などしたことはない。
 それは穂群原学園の優等生というレッテルのせいか、はたまた魔道の名門である遠坂のせいか。
 何にせよ、プライドが許さない。遅刻など遠坂凛において禁忌。
 彼女はこれまでもそしてこれからも気丈に振舞っていなくてはならない。
 少なくとも表面上である『学生としての遠坂凛』の場合において。
 遠坂凛は朝が弱い。低血圧なのか、ベットから起き上がるのに数分かかる場合がある。
 そう、彼女の一日はまずベットから始まる。
「あー………………」
 頭がまだ覚醒されていないのか、普段の彼女とは思えないだらしない声を出す。
 昨夜は少し毛布を被るには温かすぎたためか、彼女はそれを蹴り飛ばすようにしてベットの端へ追いやっていた。
 もう春なんだなあ、と朦朧とする意識の中考える。
 そして思う。平和だ、と。
 聖杯戦争が終わってから遠坂凛の日常は変化しつつあった。
 例えば衛宮士郎との交流。
 聖杯戦争時において本来は敵同士であるはずなのに、衛宮士郎のあまりに酷い魔術行使に呆れ、彼の魔術の師として受け持つことになる。(アルトリアから助けられた礼ということもあるが、その記憶は凛の脳内で抹消されている)
 その関係は今も続いているが、一見すればそれは師と弟子の関係ではなく、友人になるであろう。
 穂群原学園の中でもどうして優等生である遠坂凛と、さほど目立たない衛宮士郎が連れ添っているのか疑問の声があがる。凛は全く気にしていないようではあるが。
 例えば間桐桜との関係。
 凛と間桐桜は血の通った姉妹である。
 とある理由で遠坂桜は間桐桜へ変わり、二人は疎遠になっていた。
 それが再び重なり合ったのは、何の因果か聖杯戦争中だったりする。
 以降、桜は「姉さん」と呼ぶようになり凛も自然と妹のように扱うようになった。
 ―――その間にライダーという異分子も交じり合っているのが最近の凛の問題であったりする。
「――……うー。ダメだ。体が動かない」
 もしこの露な(胸元のボタン全開)姿を遠坂凛に対して崇高視している学生が見たらどう思うだろうか。確実に彼女へのイメージを変えるはずだ。
 昨夜は珍しく徹夜をしていた。もう入ることを嫌がっていた書庫へ足を運び、少し調べものをしていたのだ。
 些細なことで興味本位で調べたのだが、それが意外にものめりこんでしまい、嫌っていた書庫の空気など何処へやら、貪るように読んでいた。
 それでこの結果だ。三時間程度の就寝などで睡眠欲が満たされるとは思わない。
 しかし、凛はこれでも学生である。通っている以上学園には足を運ばなければ。
「くっ、こんなところでアーチャーの重要性を認識するなんて」
 もういない過去――未来か――の人間を思い唸りつつ、体をどうにかして捻る。
 金縛りにでもあったかのように動作が遅い。時折「おぉぉ……」と闇の奥から吠える獣のような声を出すのはどうかと。
 ぺたんと仰向きだった体勢をうつ伏せに変える。
 白い枕が彼女の顔全体を包み込む。呼吸が出来ない中でうっかり頭の中で妄想を繰り広げていく。
 ―――アーチャーがエミヤシロウだったのであれば、つまり衛宮士郎がうちの家にいたというわけで…………。
「ってまてまてまてまて。何を考えてるのよ、私は」
 くぐもる声で叫びながら布団を思いっきり叩く。体の神経は敏感に機能し始めたようだ。
「士郎は士郎、アーチャーはアーチャーじゃない。士郎は変わるし、変えてみせる」
 どうも思考が上手くいかない。何に憤怒し、何にムキになっているのか。
 落ち着こう。まず落ち着こう。
 枕から顔を出す。その頬は膨れており、眉も顰めている。納得いかない、そういった思いが顔から窺える。
 どうして自分が衛宮士郎の心配なんてしなければならないのか。アレは手のかかる弟子であり、からかいがいのある友人というだけではないか。それに彼を支えるのは自分ではない。傍にいるのは美しいと同性からでも憧れた、あの可憐で気品溢れる騎士だ。出る幕は、そう、ない。
「うわ。これじゃあアルトリアに嫉妬しているみたいじゃない」
 首を横に倒す。ふと朝の光を浴びたカーテンの下にある写真立てに目を移してみる。
 一つは父と、まだ遠坂桜であった彼女と一緒に撮った写真。そしてもう一つは今や毎日顔を合わすようになった衛宮邸の『家族』との写真だ。先日皆でいった花見の写真が掲げられている。
 やはりというべきか、二つの写真にはかなりの相違がある。
 人数もさることながら、写真の中にいる住人をまとう空気が違っていた。片や悲愴感。片や―――
「……はぁ。死に迫る魔術師が生に縋るようになるなんて」
 溜息を吐きつつ、視線をずらしてベットの近くに置いてあった目覚まし時計へ。
 既に針は彼の存在意義を示してから数分経っている。そろそろ体を起き出さないと、遅刻も危ぶまれる可能性が出てくる。
 だが、体はまだ起きてはならぬと呪文のように告げている。体は動くのだからあとは意識の問題だろう。
 あと五分……、と心の中で呟きつつ意識を遠のかせていく。どうやら自主休校決定らしい。
 しかしそれも行かぬ、と。

 重低音が響く、玄関のチャイムが鳴る。

 意識が保てない。本当に鳴ったのかも実感できない。五感が上手く機能しない。
 昏倒。浸透。深海。暗黒。
 二度の呼びかけにも呼びかけず、遠坂凛は現世から自身を断つ。
 眠れ。それこそが、今必要な欲求だ。
 ああ、これで士郎がご飯を作りに来てくれたらなぁと微かな意識の中、弟子のふてくされた顔を思い出していた―――

『……鍵、開いてるな。おい遠坂ー。寝てるのかー』

 なんか、きこえた。

「はぁ!?」
 その声はまさしく男のもの。
 この家に来る者さえ少ない遠坂邸において、男性の来訪者など―――ただ一人しか居ない。
「ちょ、なんで士郎がわざわざ迎えに来るのよ!」
 機能緊急起動。覚醒強制発動。
 ありとあらゆる行動を無理矢理起こさせて、遠坂凛は予想だにしていなかった朝を迎える。
 衛宮士郎。彼こそ、何の気兼ねなく、この遠坂邸に足を運べる男だ。
 遠坂邸には結界が張ってある。罠の効果はなく、索敵。中に入ってくる害ある魔術師に反応するのだ。
 彼も一端とはいえ魔術師であるが、それに反応しなかったのは敵意が一切なかったからだろう。凛が油断していたという可能性も否定は出来ないが。
 ゆえに鍵など閉めていなかった。するとしても自分が外出する際だ。
 それが油断だったのかもしれない。まさか、まさかあの男が来るなどとは。
「それにしても勝手に人の家に入るなんてどういう了見よ! あー、もう! どう対応したらいいのよ!」
 凛さまご乱心。
 布団から起き上がると、まずクローゼットへ走る。慌てているため放り投げるようにして制服を床の上へ。脅威のスピードでパジャマを脱ぎ散らかすとそのまま下着の閉まってある棚へ。色とか気分とかこの際関係なく一番手前で目に付いたブラを抜き取り、バックホックに戸惑いつつ装着完了。あまりにも勢いがよすぎたためか、そこから制服まで若干の距離がある。しかしそこで諦めるわけにはいかない。床を滑り込むように(スライディング使用)して制服を焦りながら着る。
「よし、スカート完璧!」
 光が見えてきて俄然スピードが上がる。
 シャツを羽織り、ボタンを上から止めていく――――

「――遠坂? 起きて……」

 ノックをしない馬鹿者の乱入に場が凍った。
「あ」
「いっ」
 遠坂凛は知らないが、衛宮士郎においてはこれが今日二日目の出来事だったりする。立場は逆であったが。
 ミテハイケナイ。
 脳が告げるも時既に遅し、士郎の目は声がかかった凛の方へと自然と向けられてしまう。
 遠坂凛が映っていた。
 まさか起きているとは思っていなかった。
 鍵がかかっていないのには驚いたが、それはそれ、起きていたなら返事をしてくれればいいではないか。
 結局、彼は着替え中の――黒のブラが覗き見える――遠坂凛の姿を見る羽目になってしまった。
「と、おさか。これは、なんだ、ぐうぜんなわけ、で」
 そのようなこと聞く耳を持ってくれる彼女ではない。
 これも役得と考えていいのだろうか、と遠のく意識の中で今後の展開がなんとなく読めてしまっていた。
 そう、逃げれない、と。
 凛は動きを止めたまま、無礼者の顔を見る。頭は冷却し、物事の収支がつかない。それは相手もそうであろう。表情からそれは窺い知れる。
 思考を深めていく。何が起きた。まず士郎が家にやってきた。慌てて着替えた。いや、着替えていない。まだボタンが止まっていない。それでも士郎は部屋に入ってきた。ノックもせずに。そして今、彼に自分の失態を見せ付けてしまっている。
「せ、せんぱ――――」
 後ろに控えていた桜が声をかけるも空しく、

「ガンドガンドガンドガンドガンド!! 士郎のえろーーーーーーーーー!!」

 怒涛のガンド撃ちラッシュが遠坂邸を包み込む。それはもう、ご近所の犬が喚き吠えるくらいに。
 衛宮士郎、危うく今日一日をアルトリアの膝の上で過ごすことになりかねなかった。




 ―――5.両手に花ならぬ棘・登校篇

 で。

「先輩、大丈夫ですか?」
「……なんとか」
 針の筵にされる思いで撃たれたガンド撃ちを辛くも逃げ切った士郎は、朝から体力精神力を大幅に削がれたまま登校の道を歩いていた。
 隣には後輩の間桐桜が心配そうに彼の顔を覗いている。
 間桐桜は衛宮士郎の友人、間桐慎二の妹である。
 いや、正確には義妹であり、本当の身内は今桜の前で頭から煙を噴出しながら闊歩している遠坂凛である。
 では何故、彼女らは異なった苗字を名乗っているかというと、これは魔術師の家系の問題だったりする。
 魔術師の家系で姉妹は異端。もし生まれた場合、一方は魔術を覚え、一方はその存在を知らずに生きる。かのアオザキもその例に含まれ、姉は魔術を、そして妹は――閑話休題。
 その本来魔術の存在を知らずに生きるはずだった『遠坂桜』は遠坂と並ぶ魔道の名門、マキリに養女として迎えられることとなる。
 マキリの血が途絶えつつあった。魔術の家系として、それは行かぬと遠坂・マキリ双方で密談した結果、まだ魔術師として未熟だった桜が送り出されたのだ。
 ―――しかし、そのようなことはもう些細なこと。
 遠坂凛は自分を妹のように慕ってくれるし、自分も遠坂凛のことを――――。
「しかし、遠坂のヤツ。恥ずかしいなら部屋の鍵くらい閉めとけってのに」
 嘆き、恨むような目付きをする士郎。
 だが、それは諦めのような、認めているような。

 ―――間桐桜は遠坂凛をライバル視している。

 姉と慕うのは簡単だ。しかし昨今、遠坂凛の衛宮士郎に対する態度を見ると腹立たしく思うところがある。
 師と弟子の関係はわかる。だが、それは『魔術師としての遠坂凛』ではないか。『学生としての遠坂凛』に衛宮士郎は必要なのか。
 桜は士郎を慕っている。ほのかな感情。そう、恋愛感情。
 確かに士郎の視線は既にアルトリアという少女に向けられている。これは仕方ない。何故なら美貌や容姿、振る舞いの時点で自分が劣ってしまっているからだ。
 だが、凛は違う。自分の身内。自分と似ている存在。
 つまり、自分だ。
 自分に負けることなど許されるはずがない。士郎の右腕は取られた。しかし、左腕は奪わせない。
「………桜?」
 よほど怖い顔をしていたのか、横で歩を合わせていた士郎が声をかけてくる。
 その声は当の本人には伝わっておらず、彼女は知らず知らずのうちに歩くスピードを上げていた。
 気に入らない。気に入らない。気に入らない。
 今日の朝だって上半身だけにしても下着姿で迎えていた。ハプニングなのだろうけれど、それは明らかに遠坂凛は異性であると主張しているようなものではないか。黒いブラなんて典型的に勝負に挑む色ではないか。あの照れ隠しの行動も普段の遠坂凛では見せることのないもの、まさしく意識してのものではないか。
 気に入らない。気に入らない。気に入らない。
「おい、桜!?」
 聞こえない。聞こえない。聞こえない。
 桜舞う中、桜が駆ける。
 春の色に紛れて、黒影が迫る。
 自分とは似つかぬ自分に自分を映すために。
「え?」
 流石の凛も、あまりに殺気が後ろから迫ってくるのを感じてか思わず振り返る。
 それは正解。もし振り向いていなければ、その隙を狙って、持っている鞄を振り下ろしていただろうから。
 訂正、もう振り下ろしている。
「―――なっ!」
 培われた瞬発力で凛も鞄を大振りに薙ぐ。革の鞄は両方とも見事に止め具である金部に当たり、少々耳が痛くなる音を響かせ弾かれる。
 桜の腕は反発され、再び振りあがる状態に。しかしその勢いは意外に強く、振り下ろすことは不可能。よほど腕力がなければ無理だろう。
 凛はあまりに大振りすぎたためか体勢が崩れるが、立て直せないものではない。一歩足を踏み出し、踏みとどまると全体重をそちらに傾けバランスを保つ。
 意外そうに目を開く桜と奥歯を噛み締める凛。
 二人の間には殺伐とした空気が流れていた。間合い、のような一足一刀の。
 緊迫した空気の中、突然の襲撃に襲われた凛は呼吸を落ち着かせると、渇いた喉を潤す。滴り落ちる冷や汗。これが戦いか―――!
「って、何すんのよあんたは!」
 一瞬、聖杯戦争最終戦の光景を思い浮かべた凛は、自分が今居る立場を思い出すと目の前の敵――妹、間桐桜に吠える。
 頭が狂う。
 今日は厄日だろうか。寝坊はするし、アーチャーのことを思い出すし、士郎には勝手に家に上がりこまれ挙句の果てに下着姿を見られた。そして、今現在の状況。
 決定。今日は、厄日だ。
「……………………」
 そんな桜は何も言わず、凛を睨みつける。
「ちょっと桜? 私は何しているのかって訊いているんだけど?」
 不躾な態度をとる彼女に凛の表情は、同じように険しくなる。
 だがそのような姉の態度にも妹は従わない。無言に徹する。その顔で全てを知れと、挑戦状を叩きつけている。
「……とりあえず私は行くわよ。せっかく、士郎に迎えに来てもらったっていうのに遅刻しちゃ悪いでしょ」
 ふんっと鼻を鳴らすと、急いで梳いたにも関わらず、滑らかな黒髪を手櫛で流すと再び通学路へ体を移す。
 しかし、それは桜の台詞によって途中で止められる。
「……先輩だったらそういう風に思うんですか?」
「…………は?」
 何を言いましたか、この妹は。
「姉さんは、先輩が迎えに来たら急ごうと思うんですか?」
 その瞳は真剣。仇敵を睨むように真摯。決意を揺るがすことのない、まるでかの青年のような。
「――――――」
 ニヤリ、と。
 凛は嗤った。
 桜にではない、その後ろで呆けている事の元凶に当たる青年に対して。
 向けられた視線の先にいた士郎は刹那、背筋を襲った寒気に些かの不安を覚えた。
 いや、直感だろう。遠坂凛があのように嗤うときはまず間違いなく、己に不利な出来事が起こる。
 その赤いあくまは笑みを崩さぬまま、ゆっくり士郎から我が妹へ向ける。
「ええ、そうかもしれないわね。なに、嫉妬でも起こした?」
 それは宣言にするには小さく、しかし桜には響くように伝わる音色。
 音色は徐々に体に浸透していき、桜の細胞を隙間なく埋めていく。
「言いましたね、姉さん―――いえ、遠坂先輩」
「ふふ。どうしたの桜。汗なんか掻いて。衛宮くんを奪われそうになって焦っているの?」
 すっかり悪女ぶりを発揮している凛は、勝ち誇った笑みを浮かべると桜の横をすり抜ける。
 あまりにも突飛な動きに、それを予想だにしていなかった桜はうっかり凛を見逃してしまう。微かに歯軋りをしながら振り返ると。

「っ! 遠坂!?」
「ほら、ぼーっとしてるんじゃないわよ士郎。さっきのことは許してあげるから、こうして学校まで行くわよ」
 士郎の右腕を懐全体で包み込んでいる"テキ"の姿があった。

「バカ! こんな格好で歩けるか離せ!」
「なんで? 別に恥ずかしがることないじゃない。学園内でもちょっと噂になってるんでしょ。なら―――」
 次の台詞は士郎に対してではない。
「―――その通りにしちゃえばいいじゃない」
 あくま降臨。
 そうなれば桜の行動は素早い。挑戦状を叩きつけられたのならそれを受けるのが恋愛の鉄則。しかもそれが最大の敵であるならば尚更だ。
 受けて立つ。桜の由来は美しく綺麗で、そして自分を最大限にまで主張していくことなのだから。
 ぐいっと士郎の左腕――悔しくも願っていた――を引き寄せると敵と同じように懐で包み込む。
 負けない。
 それが彼女が誓った精一杯の主張。
「あ、あのさ」
 流れる黒髪から漂うシャンプーの匂いと、押し込まれるようにくっつく二つの膨らみを両肩に受けながら士郎は嘆く。
 しかし、それを許さぬと。
「士郎。今日の昼は私と一緒に食べるのよ。約束を破ったら許さないから」
「せ、先輩。今日は私と一緒に昼食を食べませんか! その、お弁当とか、交換、したいですし」
「どうせ今日も柳洞くんの作業を手伝うんでしょ。教室で待ってるから帰るとき一言かけなさい」
「わ、私も待ってますから! 遠坂先輩より先に私に声をかけてください!」
「そうそう。今日、士郎の家に行くから。貴方の魔術の伸びがどうなっているか気になるしね。最低、一泊するつもりだからそのつもりで」
「先輩! 私も今日はお泊りさせていただきます!」
 二人による怒涛のトーク炸裂。しかも二人とも自分を選べとばかりに対立した言葉を発している。
 有無を言わさぬ遠坂凛の台詞。従わなければ泣きそうな間桐桜の台詞。
 再び板ばさみにされながら、先程のガンド撃ちとは比べ物にならないくらいの針の筵状態に陥る。
 前後関係、交友関係を一切理解出来ていない士郎にとれば何がなんだかわからないわけで。
「……なんでさ」
 遠い青空で満面の笑みと共に聖剣を取り出した愛しの人を見た気がした。




 ―――6.はらぺこアルトリア

 衛宮邸は広い。住居にしている屋敷の他に、離れの客間。士郎が魔術の特訓で使用している蔵と娯楽で建造された剣道場がある。
 娯楽といえどその造りは十分に道場として相成っている。
 板張りの床は輝くほどに磨き上げられ、その板も丈夫だ。立地条件も重なってか、道場に漂う空気は静謐そのもの。だが真剣みを帯びて場は静寂。まるで氷のように冷たい雰囲気はそこにいる人間を異世界に誘うよう。
 その異世界に一人の少女が存在を表すように輝きを発して座っている。
 輝きの元はその可憐さであろう。目に映る黄金の髪。流れる体勢。凛と澄ます態度こそ、彼女が普通ではないものであるとわかる。
 名をアルトリア。かの騎士王、アーサー王。
 彼女は佇まいを正し、瞑想する。何も語らず無駄な動きはしない。
 ただ場を作り出す。己がいるべき場所。いや、いるべきだった場所。
 ―――戦場を。
 黄金の丘を越えた。幾多の戦場を駆けた。己の国のために戦った。
 しかし、最期の最期まで戦えなかったアルトリアが誇る最強の人物がいた。
 名を佐々木小次郎。柳洞寺の門前で一度しかまみえることがなかった疾風の剣士。
 かの秘剣を最期まで防ぐ方法が思いつかず、再戦も、再び剣を交えられなかった。
 それが悔いといえば悔い。
 騎士道として武士道として、お互い真摯に立ち向かえた唯一の敵。
 もしも再戦があればどうなっていただろうか。己か、それとも侍か。
 だから彼女は想像する。創造する。かの戦場を。
 空想、具現。
 瞬間、場は変化する。現実ではなく頭の中で。
 戦場は柳洞寺への階段。その最下段に自分はいる。
 瞑っていた目を開き、上を眺める。先には門。あれが最終地点。己が求める、最終戦。
 服は自動的に――もう着ることなどないと思っていた――鎧に変化している。所詮夢に近いもの。実際には着ていない。
 ゆえに空想。妄想でもいい。
 これは、叶えることが出来なかった再戦なのだから。
「―――――――」
 駆ける。
 駆ける。駆ける。駆ける。
 一心不乱に門前へと走りこむ。草叢の匂いを浴びながら視界をそこに狭めて駆ける。
 わかる。そこにいるということがわかる。誰か。訊かずとも。何故なら自分が望んだのだから。ゆえに問いは不要。
 銀風。
 一閃された剣風はアルトリアの目前で振るわれる。
 嗚呼、これだ。
 背筋を凍らせる剣筋はまさしく、あの剣士。
 太刀筋の読めない素早さ、見事に決まるその鋭さ、そしてその美しさに憧れる。
「―――――――」
 まるで恋のような感情。胸が熱くなり、鼓動が早まり、気分が昂揚していく。
 汗が一つ、垂れる。
 さあ顔を上げよう。そこには最強にして最大の宿敵がいるはずだ。
 そう、あの剣士が―――――

 くぅ〜。

 遮断。切断。断絶。破壊。崩壊。
「む」
 場がテレビの嵐のように乱れ、現実へと戻っていく。
 かの剣士を臨むことなく、再戦を果たすことなく、再び二人は離別していく。
 たった一つの音、腹の虫が鳴ったがために。
「……どうも最近調子が悪いようです。すぐ空腹になる」
 それもこれもシロウのご飯が美味しいからだ、とぶつぶつ呟きながら頭をクリアにしていく。
 乱れる映像を切り、思考を現界へと。
 目の前に広がるは剣道場。夜ではないし、月もない、階段もない。
 ふぅと嘆息を吐くと、体勢を崩し二つの足で床に立つ。
 五感も蘇り、耳には木の葉が重なり合う音と鳥が囁く声が、足には床の冷たさが、匂いなれた場の空気を吸い、舌は甘いものを求めている。
 瞑想は意外にも長かったらしく、日の傾きが目を瞑った頃より高くなっている。
 さて、どうするか。
 ―――腹が減っては戦が出来ぬ、という日本の諺に従いましょう。
 自分の欲求に従うことにした。


 考えた結果、商店街に出ることにした。気分的なものもあったし、望みの物が衛宮邸にないことを知っていたからだ。衛宮家のエンゲル係数の半数を担っている彼女は、既に食物の有無すら熟知していた。
 距離から言えば徒歩で十分である。しかし、やはりこれも気分的なものがあり自転車にした。
 乗り方は以前、士郎に教えてもらっている。騎乗のスキルを持つ彼女にとって、それを乗りこなすのには一時間もかからなかった。
『これはかなり私のいうことを聞く馬ですね』
 そう言ったのを覚えている。
 自転車は衛宮邸にある三台の一つを拝借。一番乗りやすく機能性に富んだ、前籠がある自転車――通称ママチャリ――を前もって選んでおく。ほか二台も合わせて玄関先に置いてあるため、とりあえず屋敷へ戻り、まだ衛宮邸でのんびりしているであろうライダーに一声かけてから玄関へ向かうことにした。
 ちなみにイリヤは士郎のいない衛宮邸に意味はないのか、彼らを見送った後、再び藤村邸に戻っていった。かといって、じっとしている彼女ではない。久々にアインツベルンの城に行くかもしれない。
 さてライダーはというと、案の定、居間でお茶請けの煎餅を貪るように食べながらテレビを見ていた。
 その姿は掃除を一終えした主婦の如く。他の住人がいたときとは打って変わった態度にアルトリアは嘆息するしかない。
「ライダー。私は今から商店街の方へ参ります。留守の方、よろしく頼みます」
「…………………」
 よほど見入っているのか返答はない。
 いや、無視をしているのかもしれない。
 それはそれでいい。元々彼女はライダーと肌があわなかった。それで嫌ってくれているのならこちらも本望だ。
 理由を問われるならば、生理的に拒否するとしか言いようがない。
 見てもいないだろうが軽く会釈してから玄関へ向かう。
 靴箱から自分の靴を取り出すと、手馴れた手つきで靴紐を解き、再び締める。
 さて、といったところで。
「待ちなさい、アルトリア」
 耳に障る声が聞こえた。
「なんですか。出かける理由は先程述べたはずですが」
「ええ。聞きました。しかし了承はしていない」
「無言は肯定と捉えただけですが。これでも貴女に最大の譲歩しました。これ以上の礼儀を尽くして欲しければ、その態度を改めるべきです」
「……それが譲歩とは思えませんが。いいでしょう、しかし何故商店街の方へ?」
「貴女は私のプライバシーまで侵害するつもりですか」
「興味本位です。戸棚の中にイチゴ大福を隠している貴女が、今更商店街に何をしに行こうというのか、と」
 気付かれていたか、と内心舌打ちする。あのような場所、見る者などいない絶好の隠し場所とアルトリアは考えていたのだが、予想外の展開はあるもので。
「……わかりました。どうしても聞きたいというのであれば言いますが、その前に何をしているのですかライダー」
 隣には靴先を床で叩く、お出かけ準備万端なライダー。
 じと目で見上げていると、いえ、と相手は嘲るようにして笑った。
「貴女一人では心細いでしょうから私も行きましょう。子供の一人歩きは怖いと言いますし」
 その声色にアルトリアの耳が反応する。ほう、とこちらも嘲笑。
「では手伝っていただきましょうか。ええ、背が高い方は迷子になっても目印になる」
 今度はライダー。頬の筋肉が痙攣を起こし、笑っていても奥にある感情は隠しきれていない。
 うふふふふふふふふ。
 両者の笑みには目視できない黒き闇が。
 毒蛇が長い体躯を相手に絡ませようと唸り、獅子が相手を屠るために吠える。
 二人、顔を見合わせたまま玄関を出るさまは恐怖以外のなんでもなかった。


「で。自転車ですか」
 手で押す形で衛宮邸門前まで持ってきた自転車を見て、ライダーは嘆く。
「問題ありましたか?」
 とりあえず自分の分を出したアルトリアはそれを繁々と眺めるライダーに首を傾げる。
 その表情はどうも興味津々といったところ。
 どう動くのだろう。どうやって動くのだろう。方向転換は。加速は。停止は。そんな、子供が玩具を見る視線で―――
「……もしやライダー。あのような幻想種まがいのものを扱えて、コレが扱えないとでも」
 即座に不安になるアルトリアの視線にライダーは顔を強張らせる。
「失礼ですね、貴女は。これでもクラスはライダー。動かせないわけがない」
 どきなさい、と手で制すると軽快にサドルへ座り込む。
 その様は自転車ではなくバイク。腰を屈めている体勢を見る限り、彼女は何か間違った知識が入っていると思われる。
 しかもグリップを滑らせていた。時折「あれ?」と回らないハンドルに四苦八苦している。
 不思議そうな顔を浮かべるライダーに今度こそ溜息が漏れる。
「もういいです、ライダー。桜が帰ってきたら教えてもらってください。貴女も騎乗のスキルがあるならばすぐに習得できます」
 そう言うと、ライダーを押しのける。
 何やらぶつくさ言いながらも退き、彼女が乗りさまをただただ眺めていた。
 アルトリアの格好は普段のスカート姿ではなく、ハーフパンツだった。さすがにあの服ではサドルを跨げはしても、ペダルを漕ぐのは少々辛いだろう。
 馬と自転車の違いは自力を要するということ。足回りが不便ではどうにもならない。
 下にあわせるように、上の服はパーカーを羽織っていた。もちろんこのファッションはアルトリアが選んだわけではない。以前、凛と桜が一様に介して「女の子は身なりに気を使うもの」と執拗に迫られ渋々買いに行ったものだ。
「見苦しい顔を晒すのは結構ですが、行くのならば後ろに乗ってください。私は早く行きたい」
 既に形勢逆転か、ライダーの心はかなりズタボロになっていた。年場の行かない――神に至る自分にとれば――少女にプライドを傷つけられる。それが己にとってどれだけ屈辱的か。
 意気消沈で荷台に座る彼女を、アルトリアは肩を落とし―――――気付いた。
「ライダー。貴女の髪は長い。これでは車輪に絡まってしまう」
 見ると紫に照る彼女の流動は、車輪を通り越して地面にまで至っている。直線にいけば引き摺られ、曲がれば運悪く後輪に絡まってしまい自転車の動きは確実に遅くなり最低停止してしまう。
 だが今まで髪など弄ったことがないライダーはどうすればいいかわからない。せめてその髪を自分で抱くぐらいしか出来ないだろう。
 それを察してか、アルトリアは再び降り、スタンドを立てるとライダーの後ろに回りこむ。
「髪は女の命と聞きます。それを名残惜しむのは正しいですが、これは些か量が多すぎる。少々切ってはどうですか」
「……ちょっと待ちなさい。何をしているのですか」
「じっとしてください。今振り返られると少々手こずる」
 そう言われ、黙り込むもどうも気になって仕方がない。
 相手に後ろを取られる、しかも生理的に気に入らない相手に取られるというのは更に気に入らない。
 だが、その言が厳しくも温かみのあるものだったので不覚にもしたがってしまった。
「これでいいでしょう」
 と、今度は前に回りこんで彼女を上から下へ眺める。
「……やはり自分の髪型をされるというのは妙な気がしますが、これが一番まとめやすい」
「は?」
 髪型、という言葉に瞬間的に頭に触れる。
 違和感はあった。
 妙に後ろが涼しいとか、妙に後ろが重たいとか。
 その理由はすぐに判明した。いや、彼女が言っていたのだからわかってはいたのだ。
 ―――そう、これはアルトリアの髪型だ。
 一度ポニーテールにしてからぐるりと周辺を巻く、アルトリア独自の結び方だ。
 確かにこれはまとめやすいのだが、量の多いライダーの髪。ついつい重心が後ろに行ってしまう。
 抗議をしようにも、急な対処法としてはこれ以上のものはないだろう。口を無理矢理閉ざすと、アルトリアに視線を合わせないようにそっぽを向く。
 そのようなこと気にもしていないのか、アルトリアはそれに気付く間もなく再び自転車に乗り込む。
「しっかり捕まっていないと落ちますよ」
 気丈に振舞うその姿。まるでそれが当然のように、それが普段のように。
 アルトリアが王であった所以。
 果たしてそれは聖剣に選ばれただけなのか。
 彼女の気質や性質、本質が最良に達していなければ聖剣にすら選ばれなかったのではないか。
 でなければ幼い少女が王になることはなかったはず。聖剣は彼女を選んだ。王の素質を見出して。
 民の声を聞いたに違いない。民の願いを聞いたに違いない。
 国の声を聞いたに違いない。国の願いを聞いたに違いない。
 その全てを内包できる。王は一身にその想いを受けることが出来る。
 それがたとえ、小さな、些細なことであっても。

「―――まったく、貴女の気が知れませんよ。アルトリア」

 微かなもやもやは残りつつも、呆れを通り越して哀れに思い、かの騎士王の腰を緩く抱きしめる。
 配下のいない王。その後姿は小柄ながら幾たびの傷を浮かばせた。
 殺意。敵意。欺瞞。暴虐。哀願。失意。悪意。傲慢。悔恨。
 直接的な傷ではない、間接的な意識としての傷跡。視えることのない傷跡。
 それを受け続けた小さい矮躯の少女。強い、これが人間の王たる強さ。意志の強さ。
 その小さな背中にライダーは頭を押し付ける。
 まるで、王に頭を垂れる兵士のように。


 くぅ〜。


「〜〜〜〜〜っ」
「………………」
 空は、青かった。








つづいたりつづかなかったり

[あとがき]
凛嬢登場。桜憤慨。アルトリア、ライダーの友情伝説(違
しかし、この後「背中が重たいです」といわれて雰囲気崩壊。やはり彼女らは気が合わないのでしたとさ。
1話であまりにもやりたい放題したせいか、2話は少し落ち着いた感じ。
もう何も言うことはありません。言うならアルトリアとライダーの口調は似すぎて困ります。以上。
次回予告とかすると自分を戒めることに気付き排除。今後、思うがままに書くことに。

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