果たして逃走劇は開始されたわけであるが、ここで間桐桜の欠点について語らねばならない。
 基礎体力は弓道部で鍛えているため、平均以上のそれを持っている。先日の体力テストも握力、瞬発力、俊敏性は同年代の女性よりかなり長けていたといえよう。
 内面部分はよい。だが、彼女には決定的に走るという行為の上で不利な部分があったのだ。
(うー……肩と胸が痛いです)
 胸が大きいというのは魅力的ではあるが、本人にとれば不要なものでしかないのである。
 動作と共に揺れる胸は肩に余計な重量を持たせ、その動きは一般の女性よりも息が荒れるのが必然的に早くなる。
 だが彼女は負けない。
 遠坂凛に勝つために。そして、胸の大きさという魅力で衛宮士郎を振り向かせるために。
 否。全てを彼に捧げるために。
「ま、負けませんっ!!」
 とりあえず、今は衛宮士郎以外の狼がそれに目を向けていたのは言うまでもない。
 そんな、昼休み。
 そして、裏側。

 ―――10.昼食ですよ

 3年A組はやっと訪れた平穏に嘆息を漏らす。
 衛宮士郎と間桐桜、そして遠坂凛の間柄については今や学園の噂の種である。
 士郎と桜だけであれば、何も問題はなかったであろう。少々の時間を要すれば自然と薄れていく世間話だ。
 問題レベルを上げたのは『学園のアイドル』的存在である遠坂凛の出現にある。
 成績優秀、才色兼備、文武両道と完璧たる凛の割り込みは少なからず学園中を驚愕の色で彩らせた。それこそ電波の如く。
 片や何の変哲もない便利屋、衛宮士郎。彼にどのような魅力が内包されているのか。
 それに黙っている間桐桜ではない。最近ではわざわざ3年のクラスにまでやってきて昼食の同行を告げに来る始末。
 しかし、それすらも邪魔するようににこやかに登場するのが遠坂凛である。
『衛宮くん、一緒に食べない?』
『と、とおさか?』
『―――――』
 そのような黒い展開が数度。そして、此度逃走劇に発展する。
 毎度、そのような黒い空気を吸わされる者にとれば喜ばしいこと、この上ない。
 本当の被害者は衛宮士郎などではなく、3Aのクラスメイトに他ならない。
 久しぶりに活気が戻る教室に、再び溜息が漏れる。
 椅子に仰け反るように座っていた彼女――蒔寺楓はコンビニの袋からパンを取り出して袋を破った。
「しっかし、今日は厭に賑やかだったなぁ。間桐の妹が吼えている姿なんて一生拝めないぞ。それにあの遠坂と劣勢ながら口論しているってんだから凄いよ」
 それに答えたのは水筒から茶を注いでいる、古風な印象を受ける少女――氷室鐘。
「あれは劣勢というより、遠坂嬢が遊んでいたようにしか思えんが」
 音を立てて注がれる熱いお茶に目を奪われながらも、その目を見開いたのはまだあどけなさが残る少女――三枝由紀香。彼女は弁当を突付いていた箸を止めて鐘に問いかける。
「え。遠坂さん、遊んで、たの? 私には口論しているようにしか……」
「傍から見ればそうだろう。そうだな、声の調子を感じ取ればいい。人の感情というのは意外に声色で分かる場合がある」
「そりゃ、おめえの聴覚がいいだけだろうが。一般ピープルにそれが出来るかって」
 大口を開けてパンを頬張り、パック牛乳でそれを流し込むと、楓は由紀香を少し呆れた顔で眺める。
「でなくてもああいうのは口調でわかるんだよ。由紀っちも思い返してみればすぐわかるって」
「そ、そうかな?」
 不安がる由紀香をよそに、楓は鐘に視線を移す。
「それにしても遠坂が間桐の妹を遊んでいた、ねぇ。わかんねぇなぁ。アイツってSっ気があったわけか?」
 不躾に質問をしてくる彼女を、それほど気を悪くした表情を浮かべることなく、茶を啜りながら答える。
 まずは息を一つ。
「さて……、それは交流のある蒔の方がわかるのではないか? 時に私は命令されるのが特に嫌だ。蒔が強引に私を陸上部に入部させた際はかなり陰で憤慨したものだ。いつ、仕返ししてやろうかと模索もしたが」
「うわ、アンタは典型的なSだよ。しかし、遠坂ねぇ。見た目Sなんだけどな。ん、となると遠坂と由紀っちはベストカップルなわけか。ふむふむ」
「何を納得しているか知らんが、含意を察して私も納得しておくとしよう。由紀香は――――間違いなくそっちだ」
「な、何を二人とも腕組んで頷いているのぉ!?」
『由紀香はM』
「ひ、ひぃ〜ん………」
 もう既に泣きかけで、目が潤みかけている由紀香に救いの手が伸びたのはそのすぐ後だった。
 由紀香の頭に軽い音と共に妙な重さを感じられた。何かを乗せられているのだ、と理解するのにそれほど時間はかからなかった。
 バランスを保ちながら上を覗き見ると、見覚えのある顔がやはり見覚えのある表情で他の二人を見ていた。
「何やってんのよ、アンタら。三枝が泣いちゃっているじゃない」
 溜息を吐きつつ、豹のような目付きで彼女らを見ている少女。
 一見して、自己の世界を形成し、他のものなど眼中なしと思われるその容貌。だが、その体から発せられる気迫にそのような弛んだ要素は無く、至って普通、または力強さが感じられた。
 しかしその内面は先程の台詞から察することが出来るであろう。彼女は実に友達想いなのだ。
 弓道部主将にして、遠坂凛が確実に親友又は悪友と認める―――美綴綾子という少女は。
 登場と共に、楓の表情は嫌なものでも見た顔に変化する。
「うげ。美綴」
「うげ、とは結構なご挨拶だこと。どうせ蒔寺が妙なこと言ったんだろう」
 はいはいどいてどいて、と由紀香と楓の間に無理矢理割り込んでくる綾子。
 空いた空間などいくらでもあるのに、一番狭い空間を選んだ彼女は何かを意図しての行動に違いなかった。
 それは勿論、由紀香と楓の間を空けるためでもある。こういった配慮が主将になった所以なのだろう。
 楓は面白くない顔をしながらも現実を受け止めると、出来るだけ視線を合わせないようにとそっぽを向く。
 美綴綾子と蒔寺楓は非常に仲が悪い。特に楓の嫌い方は途轍もないものである。
 二人の接点は、たった一人の少女。学園のアイドル的存在―――遠坂凛。
 両者とも何らかの関係を持っており、よく言葉を交わす。
 綾子は変わらずの約束を胸に交流を続けており、楓はプライベート面で交流があった。
 それが気にいらなかった。蒔寺楓はそれが気に入らなかった。
 優等生である遠坂凛を手篭め(かなり語弊あり)にして、美味しい蜜を吸おうとする計画を立てている彼女にとって、美綴綾子という存在は邪魔以外の何者でもない。
 そのような敵意をあらゆる武道を嗜んできた綾子が察しないわけがなかった。
 ストーカーの如く、尾行してくること数知れず。逃げ切ったこと数知れず。
 凛名義で「別れましょう」という手紙を下駄箱に入れられたこと多数。破った手紙、もはや数えられない。
 挙句の果てに、襲われたりもしたが軽くあしらった。以後、直接的なことはなくなったのだが。
「あ、あのっ。ケンカしないで!」
 一気に暗くなる空気をそのままにしておける由紀香ではなかった。
 腕を上下に振りながら懸命にアピールする。その姿は可愛らしいもので、うっかり氷室鐘は頬を緩ませてしまう。
「確かに、このままの雰囲気では息苦しくて適わないな。けど、由紀香。箸を振り回すのは危険極まりないのでやめるように」
「はわっ」
 自分の失態に気付くと顔を赤らめて、俯いてしまう由紀香を見て、その笑いは伝染する。
 最初に綾子が含み笑いをし、次に豪快とは言えないが楓が腹を抱えて笑った。
「くくっ。三枝はやっぱり面白いね。調子が狂わされて笑わされるなんて、誰かさんみたいで妙に微笑ましいよ」
「にはははは! おい、美綴、それって由紀っちを褒めてんのかわかんねぇよ!」
「褒めてるって。違う指示語で悪いが、誰かさんみたいに遠まわしに愛情表現する人とは違うんでね」
「ケッ。言ってろ」
 心機一転するためか、楓はストローに口を付けてパックの中身を飲む。
 綾子も笑みを浮かべながら、自らが作った弁当の包みを開けている。色はこれまた意外にも桃色だった。
 一転して、状態が良くなった二人の間を見て、由紀香は困惑の色を隠せない。
 何が起こったのか、どうして二人とも意気投合してしまったのか。
 それを言ってしまっても良かったのだが、更に混乱するだろうと誰も口にしない三人なのだった。

 この四人が昼食を共に食べるきっかけになったのも、遠坂凛だったりする。
 ここまでくると、どれだけ遠坂凛という少女が秋穂原学園で知名度があるかがわかるようなものである。
 とはいうものの、綾子と楓は常に凛個人と交流があって、由紀香が憧れている。過半数に何らかの関係があれば、話も合う。
 2年次に同じクラスだった彼女らは、凛の話で盛り上がり、自然と溶け込みあった。
 今では個人個人で休日に出かけるほどの中にまで進展している。

「ところで美綴嬢。君は遠坂凛と間桐桜の両者に交流があったと思うが」
 話を戻す。元々、今日の逃走劇から派生した話だ。元に戻しても特に問題はないだろう。
 間桐桜は弓道部のホープである。先日の大会でも見事な成績をあげたことを始業式後の表彰授与の場で知っていた。
 彼女の卓越する技量と見事なプロポーションは、地味ながらも着実に好感を得ている。
 そして最近の凛との争奪戦は、彼女を人目に曝すのに格好の場となった。
 今では名物となりつつある二人を良く知るのは、学園内で衛宮士郎を除いて美綴綾子ぐらいだ。
 その綾子は、ああ、と今思い出したとでも言わんばかりの声を上げると、持った箸を振る。
「さっきのことだろ? 衛宮の女ったらしは今に始まったことじゃないけれど。まさか遠坂まで陥れるとは。桜が哀れでならないね」
 綾子が肩を落とすと、それが意外とばかりに由紀香は驚きの声を出す。
「え、衛宮くんって女ったらしなの?」
「あ、いや。間桐みたいに意識的に女に絡んでいるわけじゃなくて、無意識下だね。女子供に優しいんだよ、アイツは。だから人から見れば女ったらしに見えてしまう」
「違うの?」
「一概に違うとも言い切れない。……鈍感だからねぇ。桜の一心不乱の愛情表現に気付かないんだからさ。こう、なんていうか―――」
 ああ語彙が足りない、と頭を掻き毟る綾子に鐘は助け舟を出す。
「博愛主義というものかな。正義を掲げるものがよく使う」
「それだ」
 納得したようで満面の笑みを浮かべる。
 貴重なその笑顔に、一同は驚きつつも綾子は気にすることなく話を続ける。
「よくアイツが言ってるんだ。『俺は正義の味方になる』って」
 ぶほっ、という音と共に楓は咳き込んだ。
「ハァ!? 子供かよ! 仮面ライダーにでもなるつもりかよ。衛宮の野郎」
「博愛主義にも程があるな。衛宮士郎は夢を抱きすぎる。正義など、この世には存在しないというのに」
 成長した少女二人は、各々正論を述べるが、そんな中で由紀香だけは違ったことを考えていた。
 正義の味方ってそんなに悪いことかな、と。
 無償で人を助け、苦しみつつも世界の平和を望む。弱きものを助け、悪を滅する。
 例え味方が己のみだとしても、荒野に一人佇んでいたとしても、その精神を覆すことなく、来るべき安息の未来のために―――
 幼い弟たちを育てているせいか、正義の味方というものを身近に感じる。
 休日にはその話題で盛り上がり、弟たちが将来の夢を語る。
 ヒーローになりたい。
 正義の味方になりたい。
 別に、悪くないのではないか。
 かくいう由紀香自身も子供の頃、戦隊もののピンクに憧れていたのは隠すべき夢である。
 その想いは―――綾子も同様だった。
「アンタらは衛宮の眼を見ていないからそう言えるんだよ。最初は私もくだらないと思っていたけどさ、衛宮の信念ってヤツかな。覆らないんだよね。 無茶して、人目のつかないところで努力して。知ってる? うちの弓道部辞めたのだって『皆の迷惑をかけたくない』からだよ。誰も迷惑なんてしていないっていうのに」
 見るからに嫌そうな顔をしている。
 士郎の腕を三人はそれほど理解できていなかった――表彰を幾度かされたのは覚えている――のだが、弓道部の主将で成績もあげている彼女がそのような顔をするからにはそれほどの腕前なのだろう。
 想像する。いつも普通に、一見何の変哲もない少年が見知らぬところで人知れず苦労している姿を。
「……かっこよさそうに聞こえるけれど、それって少し寂しいよね」
 由紀香のその言葉が全てを表していた。
「そうだね。けど、それを衛宮に言わない方がいいよ、三枝。更に踏ん張り出すと思うから。うん、やっぱり三枝は優しいね。私ので悪いけど玉子焼きをあげよう」
 ほれほれ、という言葉とは裏腹に丁寧な箸使いで由紀香の弁当箱に自分の玉子焼きを入れる。
 予想だにしなかった行為に「えぇっ!」と驚きつつも、他の人の味付けが気になるのが料理研究部希望だった彼女の素質。素直に好意を受け取ると共に、味わうように食す。
 砂糖が多めに含まれている甘めの玉子焼きだったが、それでも探究心に燃える彼女は懸命にレシピを頭の中で形成していく。
 表情がころころ変わるのを微笑ましく、眺めていると、ふと椅子が引き摺られる音が近くで鳴り響いた。
「あ? どうした、鐘。トイレか?」
「食事中に不躾だな、蒔の字。もしそうであっても言わぬのが礼儀だろう」
 もっと慎みを持て、と暗に言っている気がして楓は答えに窮する。
 そのまま何も言わないので、代わりに肩を落としていた綾子が問う。
「急用?」
 うむ、と小さく答えると
「少しばかり、本人にな」




 ―――11.同属は恋をするか

 穂群原学園内で安全且つ、一般生徒の目に付かない場所を挙げるならば片手の指だけで足りるだろう。
 職員室はいうまでもない。
 年長の人々に囲まれつつ、用のない生徒は滅多に入り込めない一種の聖域。
 昨今は好みの教師に会うためにやってくる者もいるが、それは少数派の部類に入るだろう。
 特に興味本位で藤村大河に近寄ろうものならば、その休み時間をごっそり抜かれることを覚悟しなければならない。
 まず最初に他愛無い世間話から始まり、次に士郎、居候のイリヤの話に入る―――とこれはまた別の話。
 職員室など教師が集まる場所を省けば、残るのは盲点。
 誰もがその存在を知っているのにも関わらず、敢えて近寄ろうとはせず、入れる者も限られる部屋。
 生徒会室。
 律儀にも秘密主義を全うしているのか、部屋にはロック式の鍵が設置されている。
 これを掛ければあっという間に密室。安全地帯になるのは間違いない。
 そんな部屋の中に、生徒会長である柳洞一成と逃走劇の元凶である衛宮士郎が対面して弁当箱を突付いていた。
 静寂。二人とも食事中は何も言わない体質であり、自然と静かにそれは行われる。
 たまに
「すまぬ、衛宮。その肉団子をもらえないだろうか。やはりうちの弁当には肉が極端に足りない」
「ん。好きなだけ取ってくれ。俺はあまり食欲ないからさ」
「これはかたじけない。このご恩は必ず」
 喝、と真剣な面持ちで告げるといったやり取りぐらいのものだ。
 そのまま、沈黙のまま昼休みが終わるかと思っていたが、廊下から微かに聞こえてくる足音の早さがそれを邪魔する。
 もう幾度も流された異なる二つの音。リノリウムの床に鳴らされた音は時に激しく、時に慎みを帯びてフェードアウトしていった。
 そんな音を耳にして、思わず一成は嘆息が漏れる。
「やれやれ。あの女狐、まだ諦めるつもりがないらしい。しかし、未だに此処に気付かないのは捜索眼に乏しいと思われるな」
 首を縦に数度動かし、満足そうな顔を見て、士郎は凛の性格を思い出していた。
 ここぞというところで抜けているところ。
 まさかそのような致命的なミスを一成が知る由もない。何しろ、彼女は徹底して気丈に振舞っている。
 誰に対しても欠点を見せることなく、誰に対しても表を曝け出すことはない。
 ―――衛宮士郎と会い見える前までは。
「それにしても衛宮。君はとんでもない判断を取ったことをわかっているのか?」
 矛先を士郎に変えた彼の目付きは、哀れというより諦めの色が強い。
 言われて浮かべる彼の表情は少々疲れが見えた。
「君と遠坂、そして間桐桜の話は重々にして理解している。しかし、今日はいつもより異常だった。朝からあれほどの気迫を彼女から感じることになろうとは思いもしなかったぞ」
 この場合の彼女というのはきっと桜のほうであろう。
 凛と違って、桜は登校の最中も決して士郎の腕を放そうとせず、また自分の姉に目を逸らさず睨んでいた。
 凛は自分の体裁もあるのか、学園付近になると腕から離れ、口調も優等生のそれに変わっていた。
 しかし、桜はそれでも変わらずの体勢。士郎に宥められたがそれでも変化は無く、結局3Aまで一緒だった。
 その様子を一成は傍から見ていたのだ。
「何かあったのか? 女狐に何かされたのであれば拙いが御祓いをさせてもらうが」
「御祓いってのは神社の方じゃなかったか?」
「うむ、しかし呪いは呪い。似たようなことも寺院では出来るであろう。――――覇ァッ」
 掛け声と共に眉を潜める。突然の行為に思わず士郎は目を見開くが、有言即実行したことに気付き、軽く肩を竦める。
「これで効果があればよいのだが…………それで、言葉にしてみる決心はついたか。何事も吐露すると気分が良くなるだろう」
 一成なりに心配しているのを感じると、仕方ない、と口を開く。


「…………」
 あんぐり、と口をあけて黙り込む一成。
 それもそのはず、衛宮士郎と遠坂凛の仲が見るからに良かったのは知っていたが、家に上がりこむまで親密な関係になっていようとは。
 柳洞一成は遠坂凛に嫌悪感を抱いていた。交流の後、ではなく、直感的なものだ。
 霊力の高い柳洞寺住職の息子という血のせいか、彼にもそういった察知する能力は備わっていた。遠坂凛にたまたま会話する機会が出来たとき、
「君はいずれ、周りを不幸にするぞ」
 と忠告した。しかし彼女は
「運気か霊気か知らないけれど、未来を予測するのは詭弁師のすることよ。柳洞くん」
 そう、あっさり流した。まるでそのようなことは自覚していると言わんばかりに。
 だから怖かった。その影響を衛宮士郎が受けるのではないか、身近な者が喰われるのではないか、と。
 かくして、彼女の不運が伝わったか知らないが、衛宮士郎も柳洞寺に半ば住み着いていた葛木宗一郎も聖杯戦争という命を賭けた物語へと引き込まれていった。
 そのことを彼は知らないが、不安に思う。
 今朝の状況――念のため凛の下着姿を見たことは伏せておいた。聞かれると一成が暴れだしそうだったため――を話し終えた士郎は、弁当箱を包み込むと一成の反応を待っていた。
「一成」
「―――ああ、すまぬ。しかし、あれほど遠坂凛には近づくなと警告していたにも関わらず、君は怖いもの知らずだな」
「? 確かに遠坂は怖いときもあるけど、一成が思うほど危ない目にはあってないぞ」
 これは本音。赤いあくまは笑みを浮かべながら迫るときも多々あるが、それでも普段は普通の少女と変わらない。
 それに今や家族同然の者に、そういった言い草をされるのは少々胸が痛む。自然と語尾が強張る。
「ほう、衛宮はよほど女狐に熱と思えるが。セイバー殿のことはきっぱり割り切ってのことかな」
 士郎とアルトリアの件も彼本人から聞いていた一成にとれば、その態度は気に入らない。浮気などあるまじき行為。しかも遠坂凛という悪しき者になど。
「む。そこでアルトリアを出すのは場違いだろ。遠坂のことは友達としてみているだけだ」
 確かに遠坂凛を異性として見ていたこともある。
 しかし、それは憧れに近いもの。恋愛対象とは一線を置いた感情だ。
「桜も、妹ぐらいしか見てないし」
 既に心の中には一人の少女。心の椅子に座るのは体の小さな王様。浮かぶは凛々しいあの夜の姿と、頬張りながら食事をするあどけない姿。
 揺るぐことのないその席。
 それは聖杯戦争が終わり、彼女が自分の前から消えたときから変わらない気持ち。
 彼女以外に胸焦がれる想いをするつもりはないし、彼女が叶えられなかった信念というのも受け継ぎたかった。
 衛宮士郎とアルトリア・ベンドラゴンは魔力のパスがなくとも、心で繋がっているのだ、と。
「……惚気は十分に承知した。しかし、衛宮がその調子では彼女らもすっぱり諦めがつくというものでもあるまい。行動で示すより言葉で示さねばわかるものもわからぬ」
 まったく男という性別の悪い部分だ、と肩を落とす。
「何か、全てお見通しって顔だな。というか、遠坂と桜が俺を恋愛対象に見ているはずがないだろ。そっちこそ勘違いしているんじゃないか?」
「鈍感此処に極まれり、と。君はまさか遠坂凛と彼女のアプローチを単なる戯れと思っているわけか。違うだろう。君は単に誤魔化しているだけだぞ」
 む、と押し黙るところを見ると少なからず図星といったところだ。
「わかったよ。その始末は今日中に終わらせる。ちゃんと―――アルトリアを愛していることを、心が揺るがないことを伝えるよ」
 惚気は十分だというに、と一成は笑う。
「しかし、うむ、やはり衛宮は色々と無茶をするからな。セイバー殿のようにしっかりと面倒見のいい方を伴侶にするべきだ。あのような聖気に満ちた方には安心して衛宮を任せられるというものだ」
「一成、お前はいつから俺の親に成り上がったんだ」
「ははは。お父様と呼んでも構わないぞ」
「……ったく、一成には色々と負けるよ」
 備え付けの急須で食後の一服といこうと、茶の準備をしているとふと生徒会室の扉を叩く音が鳴った。
 最初は凛か桜が嗅ぎつけたか、と思ったが、そうであればもう少し激しく叩くはずだ。
 二人とも相当な時間をかけて、探しているのだ。望みの種が見つかったのならばその音は自然と激しくなり、更に怒鳴り声が響く。桜は怪しいが、凛ならばそうするだろう。
 しかし用心のためか、一成は士郎に口を塞ぐよう手で合図をしてから鍵のかかっている扉へと向かった。
「誰ですか?」
「3年A組、氷室鐘と言えばよろしいかな。生徒会長殿」
 氷室、と名乗られて二人は顔を見合わせながら彼女の面影を思い浮かべるとその扉を開いた。
「何用かな。氷室くん」
 そこに居たのは、彼よりやや低い背の少女。地毛か、はたまた苦労症なのか微かに白髪が混じっている。
 見るからに和風を思い浮かべる容貌。そして眼鏡の奥に潜むその瞳は射抜くようにして一成に向けられる。
「ここに衛宮士郎が――――ああ、やはりここに居たか。柳洞が返事をしたことから予想は出来ていたのだが」
 一成を押しのけると、つかつかと士郎のほうへ歩むよって行く。
 二人は少しの間押し黙ると、どちらともなく笑みを浮かべた。
「……思い出した。氷室はこういう捜索行動は、凄く鋭いんだった」
「二年前のことを今にして思い出したか。馬鹿者め」
 実はこの二人、過去、同じクラスになったことがあった。
 その際も何の因果か、藤村大河が担任教諭だった。
 今考えれば、それがこの二人を結びつける結果になったのだろう。
 彼女は入学式後、最初のホームルームで委員長、副会長を決める際に
『えっと、委員長は話が通る士郎で、副会長は見るからに委員長タイプの氷室さんで行くからよろしくー』
 と独断と偏見で決定した。
 士郎は大河がこうと決めたら頑として退かない性格を知ってもいたし、鐘も彼女を一目見たときからこうなることを諦めてもいた。周りはやや騒いでもいたが、鶴の一声ならぬ虎の一声で場は落ち着く結果に。冬木の虎の異名はこうして初日より一年生の間に広まる結果になるのであった。哀れ、タイガー。
「旧年の話に盛り上がるのは構わないが。氷室くん、衛宮に何用かね。すまぬが、彼も少しばかり大変な目に――」
「わかっている。……同じ学び舎で過ごしているんだ、それくらいわかるさ」
「では」
「安心しろ。尾かれるほど神経は衰えていないし、ここに入る際も気付かれぬようにしてきた」
 そこまで馬鹿者じゃない、と生徒会長相手に蔑みの目を向ける。氷室鐘、意外とチャレンジャー。
 唸る一成を尻目に、鐘の視線は士郎へ。
「今日この場に来たのは他でもない。衛宮士郎、君の精神は美綴嬢より聞いた。それを崩壊させにきた」
 俺の精神? と首を傾げる。しかしそれは間もなく士郎の頭に過ぎった。
 正義の味方。
 衛宮切嗣より受け継ぎ、継承され、セイバーと出会い、英霊エミヤと出会い、自分の心が間違っていないことを再認し、己の未来を否定し、そして新たなエミヤシロウを作るために彼は未だその精神を抱いている。
 それを崩壊させると彼女は言った。
 それは不可能。何故ならばそれは自分のこれからを否定する。
 心で繋がっている彼と彼女。彼女はいらないと言ったが、彼はそれを許さない。
 英霊エミヤの未来。それは荒野で一人、佇む姿。信じれば殺され、助ければ殺される時代。
 彼の最期もまたそれ。正義の味方として生きたはずの彼の生き方は正義の味方であった。
 しかし、その強さと気迫は世界から正義の味方としては捉えられず、悪魔の如くと。
 だが、衛宮士郎は違う。最後の最期で後悔しないように。エミヤシロウにはならないように。
 だから、それを崩壊するならばそれは―――あの紅の背中に負けることになる。
「崩壊なんて氷室には似合わない言葉だな」
 微かに微笑んではいるが、その語尾はやや強まっている。
「ふむ、言葉は感情を表す。何かそれをそうさせたくない理由があるということ。ま、それはいい。正義の味方などという精神はいつか身を滅ぼす。無償で働き、人類皆兄弟と考えるのは平和主義の戯言に過ぎない。 衛宮、私は君のことを少なからずわかっている。止めても無駄だとは思うが、少し忠告だ」
 笑みを浮かべ、その指を士郎の額に当てる。
「君は間違った生き方をしていることをもう一度見直すべきだ」
 しかし、その笑みは何かを物語っているようで怒りよりまず不思議な気分になった。
「氷室、お前は」
「さて、私の用件はそれだけだ」
 スカートを軽く翻し、体を士郎から背けると鐘は最後の一言と述べて
「羽を休めぬ鳥はいない。そのためにも優柔不断の態度を改めねばいけない」
 と更に忠告してから歩を進める。
 呆気に取られる士郎と一成であったが、彼女がアルトリアの存在をまだ知らないことを思い出すと無言で見送ることにした。
 時計を見ると予鈴まであと五分。そろそろ凛たちも諦めただろうと立ち去る準備をしようと席を立つ。
 が。
「―――衛宮、柳洞。私はどうやらもう一仕事しなくてはならないようだ」
 まだ扉の前で立ち止まっていた鐘が抑揚のない声で告げる。
 何とも言えない顔をする二人の耳に、彼女の台詞を即座に理解出来る音が鳴り響いてきた。
 それは、リノリウムの床を叩きつけるように鳴らす足の音と
「士郎ッ! そこにいるのはわかってんのよ、出てきなさい!」
「遠坂先輩!? くっ、先輩! 何もしませんから私の前に出てきてください。私はただ先輩とお昼ご飯を食べたいだけで」
「どうかしらね。それにもうすぐお昼は終わりよ、桜。そろそろ自分の教室に戻らないといけないんじゃないの」
「先輩こそ、見苦しい真似をしてまで先輩を追いかけないでください。そもそも貴女が先輩に付け入る隙間なんてないじゃないですか」
「あら。嫉妬? 見苦しいのは貴女のほうよ。既にアルトリアに場を奪われているのにも関わらず、その豊満な胸で何気にアピールしているんだから。そういえばこの前の時も―――」
「〜〜〜〜〜〜〜っ! 胸が無いからってそっちこそ嫉妬しないでください!」
「む、胸のことは言うなー!!」
 漫才のようなやり取り。
 まだ鳴り響かない扉のノック音からすると、確実にここだということを決めかねているようだ。
「……しかし、これはなんというか。遠坂嬢が墓穴を掘る姿など蒔や由紀香のヤツに見せてみたい」
 喉から笑う。そういえば、と。
「衛宮、君は由紀香と似ているかもしれない。三枝由紀香。知っているだろう」
 少々時間がかかったが、士郎は頷く。
 一度、士郎の料理を食す機会――確か野外合宿の飯盒炊爨だった気がする。その時彼と由紀香は同じ班だった――があり、その味付けや軽快な調理法に目を奪われ思わず「弟子にしてくださいっ」と勢い良く頼み込まれたのを明確に残っている。
 しかし、自分と彼女が似ているか。
「料理の研究心も含め、物事に対して必死なところ、疑わない性格、人と人が争うのが極端に嫌うなどなど。少々の相違点はあっても重なる点が多い。似て非なる者ではあるまい」
「それを言うなら、氷室と一成も似ているだろ。いや、似すぎだ」
 口調とか。
「それは遺憾だな。私は柳洞のように堅物ではないつもりだが」
「右に同じくだ。衛宮、今のは撤回してもらわないと困る」
 はいはい、と軽く宥めるとこれからのことを考える。
 もちろん今から戦場に赴くということを念頭において、だ。
 揺るがない気持ちを伝え、優柔不断な気持ちを払いのけるために。
 凛と桜の機嫌と関係を崩さない台詞を頭の中で模索する。強化や投影の訓練とは異なる人と人とのふれあい。
 決められた公式を操るのではなく、読めぬ心を左右させる。
 だが、それを――――
「衛宮、君は私の言葉を最後まで聞いていたのか。もう一仕事すると」
 呆れた口調で鐘は、肩越しに士郎を見る。
「目の前で口論と騒動を起こされては私とて困る。そういった解決は私の目の届かない場所でしてもらうとして、今は君を逃がすことに専念しよう。柳洞」
「……ふう、どうやら衛宮の言葉は少しばかり正しいかもしれないな。俺と氷室は思うところまで同じということか。―――よって衛宮、その辺に隠れていろ」
 頷きあう二人に士郎は何も言えず、言われたとおり壁に体を寄せて身を隠す。
 それを確認すると一成と鐘は並ぶようにして扉を開けた。

「ッ、士郎! ―――って、柳洞君と氷室さんじゃない」
「何を騒いでいるかと思えばそちらこそ遠坂嬢ではないか。間桐の妹も一緒で」
「こ、こんにちは。あ、あの衛宮先輩はこちらには」
「衛宮はここには来ていないが。どうせ女狐が怖くて逃げ出したに違いないだろう。これを機に衛宮と縁を切れ。この悪鬼が」
 台詞とは裏腹に、からからと笑うその姿に不信感を抱いたのか凛は顔を顰める。
 柳洞一成と氷室鐘。この二人は妙だ。同じクラスということは知っているが、それでもこの二人が見える光景を凛は見たことがなかった。
 知らない間に知り合ったというならばそれで終わり。
 しかし、二人の空気はそれ以外に思える。
 こういう他人の雰囲気には鋭い凛だからこそわかる、勘のようなもの。
 彼女はそれを信じて尋ねる。
「それにしても柳洞君と氷室さんが二人して一緒の部屋から出てくるなんて、聡明な二人のことだから何か隠しているんじゃなくて?」
 形勢逆転とばかりに不敵な笑みを浮かべる凛。
 無関係(と凛は踏んでいる)な一成と鐘が何か企んでいるようで、怪しい。
 だが、遠坂凛はやはり一歩彼らより甘かった。
 何故ならば彼女も言ったではないか、二人は聡明だと。
「フッ、そうだな。強いて言えば逢引をしていたというかな」
 鐘は嗤い、
「逢瀬の最中に騒がれ、気が散ってしょうがない。しかし女狐ならば仕方ない騒ぎだな」
 一成は喉を鳴らす。
 凛と桜は息を呑んだ。
 堅苦しい言い方ではあるが、二人は見かけによらず激しい行為に浸っていたというのだ。
 しかも校内。しかも密室。
 顔を赤める二人をよそに、鐘は妖艶な笑みを再び。
「なんなら、その行為を一挙一動漏らすことなく官能小説の如く解説するが?」
「結構よっ! 桜、行くわよ。教室で待っていればどうせ来るんだから」
「は、はいっ」
 走り去る二人の足音を聞き、遠ざかると同時に一成は溜息を漏らす。
 壁に背を凭れさせ、髪をかき上げる。それだけで相当気力を消費したのが窺える。
 一方、鐘はなんともないといった顔で一成の疲れ顔を見ていた。
「ふふふ。やはり遠坂嬢といえど乙女といったところか。照れた顔が妙に可愛らしかった」
 同意を促す台詞だが、それに一成は答えることが出来ない。
「これはこれは生徒会長殿。やはり寺の息子というのは色即是空を教訓にしているのだったか、それは謝るほかない」
「……俺は君が軽々しくあのような発言をしたことに驚きを抱いているのだが」
「それは時代錯誤だよ。最近の女子高生という生き物は性には敏感なのさ。それにいちいち驚いていては生徒会長はやっていけないぞ」
 くくく、と嗤うその姿は小悪魔のよう。
 その形相に隣に居た一成はもちろん、隠れて彼女が見えない士郎すら震え上がった。
 後に、彼女は影の女王と呼ばれることになるが、それはまだ先の話である。
 氷室鐘。彼女の正体を誰も知らない。




 ―――12.鞘は剣を優しく納める

 逃げ切って放課後。
 衛宮士郎はそそくさと下駄箱を越え、運動場に出ていた。
 本当ならば、この時間帯に凛と桜を連れて決着を付けようと思っていたのだが、
『セイバー殿本人が居る方が話が進めやすいだろう。その旨は俺が伝えるから衛宮は早く家に帰れ』
 と一成にきつく言われてしまったため、仕方なしに準備し帰宅することにした。
「更に状況が悪化するように思えるんだけどなぁ。特に遠坂なんかにはからかわれそうだし」
 はぁ、と溜息を吐いているとぽんっと軽く肩を叩かれた。
 その邪気や殺気がない空気から凛たちでないとわかったが、条件反射で肩を震わしつつ振り返る。
 そこには、妙ににこやかな表情をした美綴綾子が。
「美綴か」
「なんだよ、そんなあからさまに嫌そうな顔をするなって。遠坂や桜じゃなくて良かっただろ」
「……そりゃそうだけどさ」
 頭を掻く士郎を見て、逆に綾子が溜息を吐く。
「そんなに気が乱れていたら弓には誘えないな」
「って、まだ諦めてなかったのか。三年の大会は今度で最後だろ」
 3年生は受験などのために、夏までで終わるケースが多い。
 特に運動部に該当し、それに属している弓道部も例に漏れることはない。
 弓道部部長の美綴綾子は事あるごとに士郎を今一度弓道部に引き込もうと頼み込んでいるが、全戦全敗である。
 しかし、そのようなことで諦める綾子ではなく三年になった今でも積極的に挑んでいる。
 凛と桜とは違った意味で、からんでくる異性である。
「だから頼っているんだろうが。間桐がどうせ嫌味言うだろうけど、それは私が捻じ伏せるさ。けど今のお前じゃあ誘えないな。日を改めて強襲に行くからよろしく」
「はぁ、その意気は買うよ。気が向いたら考える」
「ん。そうしてくれ。……さて、どうせ逃げるんだろ。貸しイチで巻いてやるけど?」
 元々その用だったのか、人差し指を立ててまるで子供のように笑う。
 こいつに貸しを作ると厄介なことになりそうだ、とは思いつつも二人に共通する人物であることには間違いない。
 仕方ないか、と交渉体勢に入る。
「何が目的だ」
「そうだな、私の体力と精神力を削らせるんだからそれなりのものが欲しいが―――お前の作った弁当でどう?」
「…………え、そんなものでいいのか? 弓道部の雑用手伝えとか弓道部に入れとか覚悟していたんだけど」
「私はそこまで強請る人間じゃないよ。まあ、実を言うとさ。三枝がお前の弁当をベタ褒めしているのを聞いてさ。食べたくなったんだよ」
 三枝。三枝由紀香の名前をここで聞くことになろうとは。
 よほど印象に残る味だったのだろうが、士郎自身、そこまで自信を持っているわけでもないので彼女の賞賛は少し恥ずかしいところがある。
「まぁ、それくらいなら。今度作ってくる」
 衛宮士郎にとれば一人作るのも二人作るのも一緒である。
 自分、大河の分を余計に作れば事足りる。仮にも女性なのだから、量も少なめで十分だろう。
「サンキュ。それじゃ後は任せて、早く帰りな。またな」
 そういうと鞄を持って、弓道場へ向かう。
 気付いたが、部活中に彼女らが来たらどうするのだろうか。まさか彼女らの気配を探知できるという能力の持ち主でもあるまいし。
 それでも誓った約束は守る友人想いの綾子ゆえ、やってくれるだろうと信じつつ、士郎の足は一路新都の方へ。
「とりあえず夕飯は豪勢にしないとな。遠坂辺りが満足しないし」
 目先の問題はエンゲル係数が確実に増加している我が家の食卓事情であった。
 衛宮士郎。衛宮家の主にして唯一の資金源。
 彼の心配は彼女らの気持ちよりも、まず懐具合にあるに違いなかった。


 買い物も終わり、すっかり日の暮れた道を歩く。
「うーん、買いすぎたか?」
 掲げる両手には鞄と共に買い物袋が一袋ずつ。
 買い物上手な士郎とはいえ、客人が来るとなれば知らず知らずのうちに物を買ってしまうのは仕方のない衝動である。
「けど。ま、皆よく食べるからこれでも足りないくらいかな」
 食べ盛りの獣が二匹もいるしな、と言葉なしに笑う。
 かくして、それは幸いした。
「シロウ?」
「え」
 聞き覚えのある発音と声に思わず振り返ると、やはり夜でも目立つ彼女の姿があった。
 流れる金の髪は絹糸のようで、翡翠の瞳はその名の通り宝石のよう。
 今は現代的な衣装を身に纏ってはいるが、その姿はまさしく鎧が似合う騎士。
 しかし、騎士道は存在しても騎士は存在しない現代。今や、一人の少女として現界している英雄アーサー。
 かつて振るった鋭い剣はすっかり鞘に納め、その鞘たる衛宮士郎に身を寄せている。
 夢の続きは今も尚続く。
「アルトリア。こんな夜遅くまでどうしたんだ」
「シロウこそ―――ああ、夕餉の用意ですか。今晩は何をするのですか?」
 表情は不変を保っていても、士郎には明らかに喜びを隠し切れていないように見えた。
 士郎も思わず顔を緩ませて答える。
「今日は遠坂や桜が泊りに来るらしいからな。ちょっと贅沢しようかと思ってな」
 そう言うと、袋を掲げてアルトリアに見せる。
「春だけど、まだ少し寒いから鍋物でもしようってな」
「鍋ですか。確かに大勢で囲むには丁度いい調理法ですね。―――シロウの料理は何でも美味しいので期待しています」
 とうとう堪え切れなかったのか、ぱーっと明るくなる。
 思わず鼻歌を歌うその姿は普通の少女にしか思えない。
 心から楽しみにしているようで士郎も嬉しかった。
 その後、二人は今日あったことをお互い話し始めた。
 ライダーと出掛け、駄菓子屋の老婆と会話したこと。それがかなり長引いたこと。
 ライダーが調子づき自転車を掻っ攫って、今自分が歩いて帰らねばならないこと。
 凛や桜がやけに喧しく今日は体力がかなり削がれたこと。今からそれに決着をつけること。
 それについてはアルトリアは悲しい顔を浮かべつつ、シロウの周りは美人ばかりですから、と微かに笑う。
「それにしても、母親というものは凄いと思いませんか。シロウ」
 老婆の話か、と士郎は彼女の横顔を見る。その表情は羨望の色で、視線は遠くを見ていた。
「あの人は人でもない食物にも愛情を注いでいる。私の時代にもそういった生き物に対する感謝の念を頂くときに抱いたものですが、彼女はそれとは異なる母のような温かみを与えていた。そこまで出来るというのは、本当の母でないと出来ないはずです」
 彼女と話したことを思い出しているのか、楽しそうに話す彼女に士郎は苦笑しか返せなかった。
 何故なら自分は母親が既に居ない。本当の母親は十年前の大火事で亡くなったのだ。
 もうその記憶は薄らぎつつあるが、たまに夢に見る。叫び、泣き、苦しみ、怒り、聞こえないはずの声が聞こえた。
 肉親は既におらず、母の面影も義理の父である衛宮切嗣によって薄らいでいる。
 初めから自分には母親などいなかったのだと。母親の温かみなど知らなかったのだと。
 思いつめて胸が苦しくなってきた。思い出さないようにしたことを無理に思い出したせいか、頭の中で警報が発せられる。
 蘇るな、と。思い返すな、と。
 それが顔に出てしまったのか、アルトリアの表情が一変して驚愕になる。
 そして、その理由が即座に分かり苦しそうな顔を浮かべ頭を垂れる。
「すいません、シロウ。あなたの身のうちを忘れていました。無礼を許してもらいたい」
「え、いや…………いいんだ、アルトリア。過ぎたことだし、今となっては忘却の彼方だ」
「しかし、私は貴方の母親を殺したも同然。そして不躾にも母を思い返すような発言をしてしまったのです。救いようのない馬鹿です、私は」
「それこそ過ぎたことだし、それに今は感謝しているんだよ。本当の肉親には失礼だけどね」
 何故ならば、そうでもしないと切嗣には出会えなかった。彼の遺志を継ぐことなど叶わなかった。
 そして今の環境も、今の家族も得ることは出来なかった。
 それにも増して―――
「だって、君に会えたから。心から愛しいと想う君に出会えたから」
 そう言う士郎は口元を緩ませてはいるものの、顔は紅潮している。
 自分の台詞を言ってから後悔したようで、もう後には引けない。
 それはアルトリアも同様で、え、と呆気に取られた表情をした後、顔が時間を追って真っ赤になっていく。
 硬直と静寂が続く。人気もない月夜の晩に両者とも俯きながら、次の展開を待つ。
 どうしてこの話題から切り抜けようかと発端の元である士郎は考える。
 笑って誤魔化すにしては話題が重過ぎる。そんなことをしてしまえばアルトリアがからかわれたと思って頬を膨らすのが目に見えている。
 ならば、どうするか。いきなり違う話題にするか、と目を泳がせる。
 と。
「シロウ。今夜は添い寝してもかまいませんか?」
「え」
 唐突で何を言われたか理解できないまま、アルトリアは続ける。
「凛や桜が泊りに来るのでしょう? それならば私がシロウを護らなくてはいけません。もしあの二人がシロウを異性として見ているのであれば私が添い寝していることで、諦めてくれるでしょうし、それに何よりシロウを取られたくなく、その身を独占したいを欲している。 シロウのその身は私のものであり、彼女たちの物ではない。で、ですから私は貴方と今晩は一緒します。私も、その、シ、シロウを愛しているから―――って何を言っているのですかこの口はッ!!」
 ぺしぺしと唇を叩くアルトリアを士郎は驚きつつも、徐々に柔らかくなってくる。
 ここまでダメにしてしまったんだ、と。
 一人の騎士を何の変哲もない一人の少女に、自分が変貌させてしまったのだと。
 なら、その責任を自分がとらなくてはいけないだろう。
 アルトリアが自分を護るように、自分もアルトリアを護るのだと。
「アルトリア」
 呼びかける。
 首筋まで真っ赤に染まった彼女は、その声に半ば反射的に振り返る。
 士郎も同時にそのヒリヒリと痛めてしまったであろう彼女の唇を奪う。
 その痛みを和らげるように、自分の気持ちがどれだけ高ぶっているか知らせるように。
 硬直と静寂は更に続き、誰も通らない道で二人は唇を重ねる。
 その時間は二秒足らずだったのにも関わらず、アルトリアにとれば一時間にも一日にも思えるような長さに感じられた。
「………………」
 何をされたのかわかってはいるが、対応が追いつかない。
 何をすればよかったのか、何を返せばよかったのか頭が回らない。
「………………」
 口元を押さえる彼女に、士郎も更にどうすればいいのかわからなくなった。
 衝動的に行った行為を、どう収支をつけるかと俯き再び迷う。
 多分、今顔を合わせばお互い気まずくなるに違いない。それこそ次は何を仕出かすかわからない。魔術使いとは言えど、中身は年相応の少年なのだから。
 だからこそ、“彼女”の登場はありがたかった。
 呆とした顔で遠くを見ていたアルトリアは、その闇の中に冬の名残を思い起こすような影が見えた。
 そう、その姿は冬の少女。
「……イリヤスフィール?」
「イリヤ?」
 聖杯戦争時ならば夜中に出歩くことは想像できたが、今や平和の世に身を委ねている一人の少女。
 その行動は些か首を傾げるものだった。
 今の時刻からすれば彼女は衛宮邸で士郎の帰りを待って、大河と談笑でも繰り広げている風景が容易に思い浮かべられたのだが。
 魔術刻印はあれど、士郎からすればイリヤは小さな子供だ。
 子供が一人で帰る姿など見過ごすわけにはいかず、声をかけようとしたのだが。
「――――――――」
 途惑われた。
 冬の少女は、いつもの陽気な空気を纏っておらず、まるで聖杯戦争時を彷彿させる刺々しい氷の姿。
 触れれば自らがその冷気に凍らされるのではないかと錯覚してしまうほど、そこから先には進めなかった。
 しかしそれは殺気とは程遠く、いや近しいところがありつつ、ゆえに悲しみを伴っている感覚。
 だから近づけなかった。近づけば彼女が脆く砕け、崩れてしまうのではないかと思ってしまったから。
 イリヤも彼らに気付かなかったのか、まるで夢遊病者のように意気消沈のまま衛宮邸の帰路を歩いている。
 そして彼女の背中が小さくなった頃、アルトリアが呟いた。
「イリヤスフィールがあれほど消沈するのは珍しい。いつもならばシロウを見れば飛びつく勢いを発揮するはずなのですが」
 首肯すると、士郎も首を傾げる。
 あれほどイリヤが哀愁漂わす背中を見せるのは、バーサーカーの消滅以来ではないだろうか。
 狂いつつも最期までイリヤを助け続けたサーヴァント。理性などないはずなのに、サーヴァントとしての意志ではなく己の意志で少女を護ろうとしたその強さ。
 彼を失ったとき、彼女は泣いていた。
 涙を浮かべ、森の精に彼の死を告げるかのように咆哮した。
 それに及ぶ勢いが先程のイリヤにはあった。
 もしかしたら今までアインツベルンの森に居たのかもしれないと思うと、士郎は眉を潜める。
「今は、そっとしておこう。多分、色々あると思う」
「……そうですね。魔力の巡りもやや不安定に思えます。感情が揺らいでいるのでしょう」
 先程の熱はいずこ、二人は沈痛な思いを胸にすると再び歩き始めた。
 帰りを待つ、家族の下へ。








つづいたりつづかなかったり

[あとがき]
バカップル。中学生並の恋愛模様。こういう初々しさが多分士郎とアルトリアにはあると思うのです。
濃厚すぎる恋愛は彼らには似合わない。
こう、手と手が触れ合うと恥ずかしがるくらいが丁度いいと思うのですがどうか?
氷室の台詞が橙子さんになっているが気にしてはいけない。
あと何気に三枝さんの名前が出てくるのは贔屓に思えるが実は後々関わってくるという噂。あくまで噂。
次回は夜。夜中。眠りと始まりの夜です。
全体的にシリアスタッチの予感。後々反動でギャグテイストが出てくると思うのでご注意をば。

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