□ 白昼夢 □
季節はもう冬と呼ぶには遠い。
旅立ちの日を彩った桜さえ、既に姿を緑へと変えて久しい。
目に映りこむ風景も、そして吸い慣れた空気も間近に迫った夏を知らせている。
夏の空気というものを表現しろ、なんて言われてもよくは分からなかったけど…。
「肌に絡みつくような湿り気が嫌い」
と答えたら、それは梅雨だからだ。と祐一は笑っていた。


「いってきまーす」
急ぎ足で靴を履いて、台所にいるだろう秋子さんに声をかける。
昨日までの灰色の雲はどこへやら。今日の天候は晴れ。
窓から見える空が青い。それが妙に嬉しかった。
寂しそうに窓に擦り寄るぴろの姿を見ていたから、尚更だったのかもしれない。
「気をつけてね」
背中に間延びした声がかかる。
ドアを開けた瞬間、にゃあ。と一鳴きして、ぴろは外へ飛び出していった。
「待ちなさいよっ」
慌てて私も後を追って駆け出す。
ドアの向こうに広がっている一面の青。
昨日まであんなに低く見えた空が、今日はとても高く見えた。
まだ微かな染みを残すアスファルトの上を一匹と一人が駆けてゆく。

数分後。

先ほどのスタートダッシュは何処へやら、ぴろは私の隣でくてーっとしていた。
猫にも運動不足という言葉はどうやらあてはまるようである。
「ったく…少しは加減しなさいっての」
そういう私も息は荒かった。
体力には自信があったはずなのに、今は鉛のように体が重かった。
公園のベンチに腰を下ろして、ぼーっとする一人と一匹。
水瀬家を出てからまだ十分も経っていないのに。
何だか無性に情けなくなり、溜息をついて空を見上げた。
一滴の汗が頬を伝って首筋へと流れていく。
「空はあんなに高いのにね…」
空気は、晴れていてもまだ少し湿っぽく感じた。
祐一と…一緒に来れば良かったな。
私はそっと意識を遠くへ飛ばす。
ひとつ、ふたつ。ふわふわと上空を雲が流れる。
雲のある場所の空気は、冷たく澄んでいるのかもしれない。
私はぽぉっとした目で隣を見た。
ぴろはまるで小さなボールのように寝転んでいる。
その口元からは小さな寝息が聞こえた。
――――。
呼びかけようとして、やめた。また視線を元へ戻す。
あれ?
何故だろうか。先ほどよりも雲を近く感じる。
ふわふわとした気持ちが、私の中で休息に膨らんでいく。
……あ、わたがし。



ばんっ。

「祐一ぃ!」
息を荒げて、私は祐一の部屋のドアを開け放った。
その騒音に、ベッドに横になって雑誌を読んでいた祐一が視線をこちらに向ける。
しかし、ただそれだけだ。私が廊下を走る音は耳に届いていたはずなのに。
その上、今気づいたとでもいう風に放った一言は、私の怒気を更に煮え立たせた。
「ここは風呂じゃないぞ」
「そんなことは分かってるわよ!」
再び雑誌に目を落とす祐一。
「もちろんメシも出ないぞ」
「ご飯ならさっき食べたわよ!!」
「ああ、美味かったよな。なら……」
さっきから全く話が前に進んでいかない。良いようにあしらわれてしまっている。
そんなことを話に来たんじゃなくて私の怒っている理由は……。
「食後に肉まんはまずいだろ」
それだ。
「それよっ!よくも私の肉まんを…・・・」
やっと本来の目的に辿りついた。
さぁ、言いたいこと全部ぶつけてやる。と思ったその矢先である。
「太るぞ」

ぐさっ。

胸に鋭い何かが刺さったような気がした。
「ぐっ…そんなの気にしないわよ!なんで勝手に……」
思わぬカウンターにたじろぐが、再び攻撃。
「いいんだな?」
太っても。

ぐさっ。

何故かさっきより痛みが増した。
「うっ…ちょっち良くない…かも」
いけない完全に押されてしまっている。
しかし、祐一は容赦なく畳み掛けてくる。
「太ったら可愛くなくなるぞ。秋子さんに怒られるぞ」
既にボディブローを二発も浴びた私にとっては、嵐のような連打である。
思わず、小さく頷いてしまう。
秋子さんに怒られるのは嫌だ。可愛くなくなるのも……。 ん?
「そうだろう。だから俺が協力してやったんだ」
太ったら可愛くなくなる…?
「だから俺が肉まんを食べたことはお前のためであってだな…」
そっか…じゃあ…。
「……真琴?」
祐一の言葉には心配げな響きがあった。
黙ったままの私を不思議に思ったのかもしれない。
それを合図に私は思考の海から一瞬にして引き揚げられた。
「可愛い…ってこと、だよね」
何を言っているんだ、というような顔をする祐一。
しかし、すぐに思い当たったのか表情が揺らぐ。
「今の私は可愛いってことだよね……」
そうか。そうなんだ。
私は途切れることなく、ずんずんと詰め寄っていく。
「あう……」
壁際に追い詰められた祐一は情けない声を発した。
あ、それ私の。
「そうか、そうなんだね…」
反撃のタイミングはまさに今、である。
しかし、どうやら私は素直に喜んでしまっているようで。
嬉しいな、嬉しいな。
そんな思いばかり浮かんできて、少しずつ頬が赤らんでいく。

ぺしっ

「…ばーか」
「な、なによっ」
ぺしっと頭をはたかれて、私はハッと我に戻った。
だが熱が集中した頬の色だけはなかなか抜けていかない。
しかし、一つだけ気づいたことがあった。
祐一の頬も薄く染まっている。それに気づいた時、私はまた嬉しくなった。
「そんな…可愛い顔するなよ。………襲っちまうぞ
小さな小さな声だったけど、私にははっきりと聞き取れた。
「…ふん!いつも女の子っぽくないって言ってるじゃない」
さっきまでは素直に喜べたのに、そこで私の悪い癖が出てしまう。
ついつい反発するという癖。そこでいつも全てが終わる。
だけど、終わりはしなかった。そこで祐一が口にした言葉は…。

お前は十分女っぽいよ。



数瞬。

先ほどまでのふわふわとした気持ちは、何時の間にか消えていた。
まるで空気を吸って、吐きだしたみたいに。
「あぅ…?」
とりあえず周囲を見渡してみた。特に変わった様子はない
隣を見る。そこにはぴろがいる。どうしたの、という風に視線を私に向けている。
もう一度空を見る。雲の位置さえ、さほど変わっていない。
「夢……?」
そして、視線を前に向ける。そう、そこには祐一が―――。
「ええっ!?」
そこには居なかったはずの祐一が居た。
さっきまで、祐一と一緒に来ればよかった。そう思っていたのに。
「なに、挙動不審してんだよ」
溜息をついて、じと目で私を見る。
「さっきから話しかけてたのに、返事しないしさ」
嘘。さっきから私を呼んでたって…。
私の思考は大パニックである。
「えと……ぼーっとしてた」
なんとか掠れた声で言葉を搾り出す。
しかし、頭の方は相変わらずこんがらがっている。
「全く…まだ家出て二十分経ってないんじゃないのか?」
そうだっ。時計―――。 何気なく言ったであろう、祐一の一言で私は時計を見た。
確かに、時計の針はさほど時間の経過がないことを示している。
「眠ってた…わけじゃないの?」
だけど、今までのは…。
「…何言ってるかは分からないけどさ」
不思議そうにしながらも、祐一は視線を公園の出口のほうへ向ける。
苛々したように、しっぽをぱたぱたと振っているぴろがそこにいた。

にゃあ。

「ほら、お前を呼んでるぞ」
ほれ、と手を差し出す祐一。私はおずおずとその手を掴み立ち上がる。
「…祐一も、一緒に行くよね」
分かりきっているはずなのに、なんとなく聞いてしまう。
「…当たり前だろ。それじゃ俺は何しに来たんだよ」
それでもはっきりと言ってもらえると、やっぱり安心してしまう。
自分は意外と分かりやすい性格をしているのかもしれない、なんて。
普段なら考えもしないことを考えてしまっている自分が居た。
「私に告白しにきたとか」
先制攻撃炸裂。

ぴしっ。

「阿呆」
祐一の反撃は罵声を伴うものだった。ちょっとだけ額が痺れる。
それは暖かくて、同時にちょっぴり寂しいものだった。
「馬鹿言ってないで、さっさとぴろを追っかけるぞ」
祐一に促されてぴろのいたほうを見ると、そこには既に影も形もなかった。
「大丈夫だよ。行く場所は決まってるもん」
そう、私には分かる。私たちの大切なあの場所だ。
だからゆっくり行っても大丈夫。
「ねえ、祐一」
「どした」
まだ微かな染みを残すアスファルト。大きな大きな影二つ。
「私……女っぽい?」
微かな湿っぽさはあっても、今この瞬間の空気はとても心地よい。
「…お前、なんか今日は変じゃないか?」
汗は既にひいていた。不快感もまるで感じない。
体も軽い。万事は好調。問題なし。
だけど。

「そうかもね」
やっぱり今日の私は変だ。





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