□ 夜の守護者 □
 窓から覗く月。夜を見守る存在が与えてくれる光も、何処か冷たい。
 家路を急ぐ者には、僅かばかりの安らぎを与えてくれるであろうその光も。
 薄暗い闇に佇む少女にとっては、特に感慨のあるものではなかった。
 陽の光があたりを支配する時間帯であれば、少年少女達の喧騒が支配するであろうこの廊下。
 まるで夜を守る戦士のように、彼女が毎夜この場所に姿を現すようになったのは何時のことだったろう。
 ふと傍らに携えた一振りの剣が、月光の妖しい力を吸ったように鈍く光る。
「…………」
 僅かに目を細め、舞は光の届かぬ廊下の先へと向き直った。
 冷たい感覚しか与えてこない床に差し込むの光の筋が、刹那。途切れたような錯覚。
 冬の冷気によって澄み切った空気が、微かに重くなる。
 第三者には視認できない、彼女にだけ見える異形の存在。
 少女の闘いは常に、明確な合図も与えられることなく始まる。

「―――ふっ!」
 舞が小さく息を吐き、異形へと駆けた。
 突き出した剣先が喉元へ届くかという寸前、巻き上がる一陣の風。
 反射的に地を蹴り回避する。束ねた後ろ髪を微かに掠めていく感覚。そのまま宙で前方回転し着地する。
 剣を両手で握り直し、すかさず背後にある気配へ向けて刃を振りぬいた。
 金属同士がぶつかったような鈍い音が響く。少女の一撃はまだ、異形の身を裂くに至らない。
 次の瞬間、凄まじい力によって剣先が弾きあげられる。が、その勢いを利用して後転。体勢を立て直す。
 一呼吸もおかぬ間に再び舞が駆ける。その姿勢は先程よりも前傾が深い。
 恐らくは助走の勢いと自重を乗せて、貫くつもりだろうか。しかし、異形も迎撃の構えをとっている。
 少女の体が一定の距離に近づいたその刹那。空気を切り裂くような音と共に風、恐らくは腕らしき部分が迫る。
 舞は凄まじい反応速度で対応。剣の柄に近い箇所でその衝撃を受け流し、身を翻して勢いを乗せた一撃を叩き込む。
「はあああああああっ!」
 気合一閃。
 舞の両腕に肉を裂く手応えが跳ね返ってくる。声を伴わない叫びが、少女には小さく聞こえた気がした。
 しかし、その心は揺れない。素早く異形にめり込んだ刃を反転させ、次の一撃を振り下ろす。
 返ってきたのは小さな痺れ―――戦士を少女へと返らせる。硬い、無機質な床を叩いた感覚だった。


 青年は雪の積もる夜道を目的地へと走っていた。
 雪道を走っていくのには、この街へ帰ってきて長くない彼には結構堪える。
 必然として呼吸は荒くなるが、その走る速度は衰えない。
「くそっ、遅くなっちまった」
 小さく悪態を吐きながらも、コンビニ袋の中身を揺らさないように気を使う。
 既に夜に出かけるのが習慣になりかけており、何時ものように水瀬家を出ようとした。
 しかし、今日に限って秋子さんに呼び止められてしまったのだ。
 頻繁に夜間外出を繰り返す、居候のことがさすがに心配になってきていたのだろう。
 忘れ物をしただの、コンビニに行くだの、という良い訳が通用する筈も無かった。
 後者は決して間違いではないのであるが。
「……あ、やべっ!」
 僅かに雪から覗いたアスファルトに足をとられそうになるも、なんとか持ちこたえる。
 どうやらその部分だけ凍り付いていたようである。
 物思いをする前に走れ、ということだろうか。
 再び走る速度が増し、伴って鼓動も早くなっていく。
 肌寒さと胸の熱さが少しずつ入り混じって、耳には鼓動のリズムしか届かなくなる。
 彼の作り出していく足跡、その熱に溶かされたように水滴が滲み出ている。
 黒に滲んでいく刹那、薄明るい光に照らされ、それは小さく瞬いた。


 床にめり込んだ剣先を静かに引き抜いていく。後に残るのは細長い痕跡だ。
「……どうしよう」
 少女は悩んでいた。無論、悩みの原因は目の前の穴である。
 既に異形の気配は感じられない。恐らく、今夜はこれ以上の危険は無いだろう。
 そう感じた舞は緊張をとき、目の前の問題に思考を巡らせていた。
 明日、間違いなくこの穴は発見される。しかも、隣には以前刻んだ傷もある。
 それによって齎されるものは容易に想像できた。
 穴の発見。教師、生徒会への報告。そして私に呼び出しがかかる。
 この道程を経るまでに、大した時間は必要としないだろう。
 長時間にわたる注意、質問というよりは尋問だろうか。
 そんなことは苦にはならない。でも――――。
 停学になることだけは絶対に避けたい。二人と一緒に居られる時間が奪われてしまうのだから。
 祐一と佐祐理と過ごす時間だけは、どうしても失いたくない。
「―――そういえば」
 ふと、舞は思い出した。
 毎夜の訪問客がまだこの場所を訪れていないのである。
 その人物はいつもコンビニの袋を提げて現れる、大切な友人の一人だ。
 ――――二人で相談しよう。
 少女の思考は、どうやらこのような決定を下したらしい。
 教室側の壁に身を預け、両足を抱えて座り込む。剣を傍らに立て掛けることは忘れない
 ふと、月を見上げた。夜を守る。何処となく少女に近い存在。
「……うさぎさん」
 自分が一番好きだと思う動物が脳裏に浮かぶ。
 ――――お月様ではうさぎさんが餅をついているんですよ。
 いつも笑顔を絶やさない友人が、そう言っていたのを思い出す。
 少女は今夜の月が満月に近いことに、今初めて気づいた。
「……祐一、遅い」
 未だ現れぬ待ち人の顔を思い浮かべて不満を口にする。が、その表情をとても穏やかだ。
 静かに目を閉じる。月の光が夜の守り人を照らしている。長い髪が艶やかに闇に浮かぶ。
 少女を包む青白い月光が、不思議な暖かさを宿したように感じられた。


 もう何度目になるだろうか。相変わらず夜の校舎に人の気配は感じられない。
 それは我が母校に限ったことではないだろう。
 昇降口の鍵が常に開いているという無用心さは別として。
「まだ一月も経ってないけどな……っと」
 ドアを引いた際に想像よりも大きな音が響き、少し身震いしてしまう。
 僅かに開いた隙間から、そっと身を滑り込ませる。
 つくづく思う。月明かりだけが映し出す校舎内は、まるで別世界にいるような錯覚を起こさせる。
 少女が居るであろう場所を目指し、廊下へと歩き出す。
 俄かに人の気配があたりに漂い始めた。

 程なくして、祐一は自分の教室前の廊下で少女の姿を見つけた。
 壁に背を預け、小さく顎を上げ窓の外に視線を向けている。

「―――――」
 安堵の想いが胸を支配し、ゆっくりと近づいていく。舞もこちらを振り向いた。
 二つの視線が結ばれる。しかし、声をかけようとして、一瞬躊躇してしまった。
 青白い光に包まれた少女と傍らに寄り添うように佇む銀の剣を見たからだ。
 あまりに幻想的なその姿は、まるで物語の登場人物のように感じられて。
「……遅い」
 だからこそ。
「―――あははっ」
 目の前で小さく頬を膨らませる少女の可愛らしさに、思わず笑ってしまった。


「…………」
 祐一は、どうして笑っているんだろう。
 待ち焦がれていた訪問客は、少女の姿を見つけるなり笑い出してしまった。
 少し気になって、私は自分の身なりを確かめてみる。
 しかし、何処も変に感じるところは見つからない。ならばどうして―――。
「ん、ああ気にするな。こっちのことだよ」
 舞の不思議そうな視線に気づいたのか、祐一は小さく微笑む。
 そして、これが今日の夜食だ。とコンビニ袋を掲げた。
「今日は牛丼だぞ。嬉しいか、ん?」
 牛丼。かなり嫌いじゃない。
 少女は袋の中身を見通すかのように、視線を離すこと小さく頷く。
 そして、ふと、気づく。青年のコンビニ袋に通した指は、かすかに濡れているように思えた。
 注意して見回すと、青年の頬も僅かに上気しているように見える。
「………汗?」
 もしかして、走ってここまで来てくれたのだろうか。
「えっ!? ああ、さっきそこで滑ってさ。汁が零れたんだよ」
 別に急いできたわけじゃないぞ。と付け足して、祐一は視線を明後日の方向へ向けた。
 怪しい。白々しすぎる態度は普段は鈍そうな少女にさえ疑念の感情をもたらした。
 そして次に舞がとった行動は――――。
「…………しょっぱい……」
 これは汗だ。思い切った行動から感じ取った感覚に少女は確信した。
 牛丼の味がするかと思ったが、感じ取ったのは僅かな塩分のみだった。
「お、お前なにやって」  突然の少女の奇行に素っ頓狂な声を上げる。
 しかし、次に舞が放った言葉は祐一から二の句を奪い去ってしまった。
「……祐一の味」
 そう言い放った少女の表情はどことなく嬉しげである。
「あぅ」
 どこぞの居候少女のようなうめき声と共に多感なお年頃の青年は沈黙。
 僅かに熱の残っていた頬は更に赤みを増したように見えた。
 だが、気を取り直して。
「いいか、人前でこんなことはするなよ」
 こつんとおでこを小突き、釘を刺した。声が上擦っているのはご愛嬌である。
 しかし舞は答えない。じっと祐一の顔を見つめたまま、黙り込んでいる。
 分かったか。と念を押すと、少女は何処か残念そうに。
「……はちみつくまさん」
 小さな小さな声で可愛らしい言葉を呟いた。
 よし、と小さく頷き、祐一はコンビニ袋から牛丼を取り出す。
 ほのかに立ち上がる湯気は祐一の努力の証だ。
「……汁の多いほう」
 先程の可愛らしさは何処へやら、少女は目ざとく祐一の選んだ牛丼へ手を伸ばす。
 苦笑いを浮かべながら舞のそれと自分のを取り替える。
 その際に足元の傷が目に入った。今更ながら気づかなかったこと不思議に思う。
「……舞」
 誰の仕業かは明らかだ。既に牛丼を口に運び始めている少女に問いかける。
 だが、答えなど求めてはいない。これは先程まで闘いがあった証拠なのだから。
 舞が無事だった。ただそれだけでいい。
「あとで、な」
 だが、やっかな奴らへの弁解は考えねばならない。少女は牛丼を租借しながらも、小さく頷いた。

 しかし、深夜のお悩み相談会は催されることはなかった。
 その原因は――――。
 腕の中の眠り姫だ。

「待っている奴がいるんです」
 秋子さんにぶつけた言葉が何故か思い出される。
 自分でも、あの時は切羽詰っていたように感じた。
 しかしコンビニに立ち寄ったのはこいつを信じていたのか―――。
 それとも俺の呆れるまでの馬鹿さ加減ゆえなのか。
 今日はもう大丈夫。そう言って寝息を立て始めた少女の横顔を見つめる。
 伝わってくるのは暖かさ。その鼓動。生きている証。
 ふと、傍らの剣を見つめる。月の光を受け輝く銀の刀身に俺が映し出されている。
 片手でそっと握った。持ち上げる。見た目には不釣合いな重さを伝えてくる。
 すっと目を細め。少女に小さく呟いた。

「―――おやすみ」


 君が、今この一瞬の夢を見るために。僕は、今この一瞬の夜を守ろう。
 月よ。この力ない夜の守護者に、せめて光を与えてください。



[back to]


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送