春の海 ひねもすのたり のたりかな
――与謝蕪村――








 春の陽気に誘われて、という言葉どおりその日は暖かさに満ちた日である。
 春。それは人々を心すらも温かくさせることが出来る季節である。
 木々は緑化し、花は咲き乱れ、風は温かさを運んでいる。そういった季節。
 そんな日、一人の少女が彼女自身の部屋で倒れるようにして眠っていた。
「ぁ……ぅ〜」
 沢渡真琴。
 もう暖かくなったというのにタートルネックのセーターを着ており、更に厚手の靴下まで履いている。下に穿いているスカートが短いことが対策のうちなのか。
 真琴は耳に届かない微かな寝息を立てながら、日の光を浴びて寝ていた。
 その隣には、猫のぴろが彼女に寄り添うようにしてやはり寝ている。その姿は彼女らがどれだけ信頼しているのかを表している。
 お互い、微かに開けた部屋の窓から、クリーム色のカーテンをはためかせながら吹いてくる春の風を受けながらその日を満喫していた。
 ぽかぽか。
 ぽかぽか。
 ぽかぽか。
 ぴろが寝ているのにも関わらず、大きな欠伸をした。かと思うと前足に顎を置いてまた眠りの体勢に入る。
 ぽかぽか。
 ぽかぽか。
 ぽかぽか。
 真琴が軽く寝返りをうつ。ゴムで腕に巻いた鈴がちりんっと音を立てる。だが起きる気配は全くない。
 ぽかぽか。
 ぽかぽか。
 ぽか――――。
 そこで部屋の扉が叩かれる。まるで彼女が寝ていると察しているかのような軽いノックだ。
「真琴? おい、真琴。いるのか?」
 そのノックと声に真琴は反応することはない。
 反対にぴろが耳をひくつかせて、うっすら目を開ける。にゃ〜っと鳴き声のような欠伸。どうやら起きてしまったようである。軽く顔を前足で洗うようにしてからノックされた扉へと近づいていく。
 ちょうど、ぴろが扉が開く方向と反対側に来たときにその扉は開かれた。
 まず軽く開けられ、そこからやや中性的な顔つきの青年が顔を出す。
「入るぞ。……って寝てるし」
 確認すると扉を完全に開き、堂々と彼女の部屋に入り込む。その後に続いてぴろが付いてくる。
 しゃがみこんで彼女の寝顔を確認する。やはり寝ていた。
「まったく。早く帰って来いとか言ったのは誰だっての。自分はさっさと寝てるじゃないか」
 うりうり、と言いながら悪戯心で真琴の頬をつつく。柔らかい頬はまるで猫の肉球のようでもある。
 後ろでぴろが鳴き声を上げるのを笑って答えて、また彼女の頬をつつき始める。
 それでも彼女は目覚める兆しが見えない。よほど温かさに酔いしれて、深い眠りについているのだろう。だが若干嫌そうな顔をしているのは目に見えた。
 青年、相沢祐一もそれに気付き、先程の悪戯顔から一変して優しげな顔になり、つついたその指を戻して手を広げて再度彼女の頬に触れる。
 頬に当たる髪を自分の指に絡め、栗色の髪の毛をさらさらと撫でていく。指の間からその髪がなくなると今度は彼女の頭へとその手を持っていく。撫でるように愛でるように、また壊れ物を扱うように優しく撫でていく。
 真琴の嫌がって強張っていた表情が柔和なものに変わり、口元には笑みが浮かんでいく。
 まるで猫のような愛くるしさに自然と祐一にも笑みが浮かぶ。
「本当に、平和そうな顔してよ」
 春。
 それは真琴が望んだ季節。

 ―――春が来て、ずっと春だったらいいのに。

 望んで止まなかった、その季節。
 彼女は今、その季節に生きて、その季節で寝ている。
「……バァカ。なに、感傷に浸ってるんだ、俺は」
 祐一はそれでも尚、真琴の髪を撫でている。彼女が嫌がるまで。彼女が目覚めるまで。そのつもりである。




 ――――だったのだ。




「はぅ…………んー」
 真琴は目を覚ました。まだ寝足りないのか、寝ぼけ眼である。その目を擦りながら体を起こそうとする。
 途端、目の前に逆立ちをしているぴろが出てくる。驚いたが考えるとぴろが覗き込んでいるのだということを理解し、安堵を吐く。
 では、改めて体を起こそうと左手を床につけようとした瞬間。
 妙な感触。
「ひぇうっ!?」
 再び、驚きに心臓が跳ねる思い。だが、これもよく見れば至って普通の、いや状況からすれば普通ではない。そう、なんでこんなところにという疑問符が浮かぶ。
「ゆう、いち?」
 名を言われた祐一はその言葉に全く反応を示さない。それもそうで、彼は寝てしまっているのだ。
 彼もまた、春の陽気に誘われて深い眠りについてしまったようだ。目的は達成せず。そして、すれ違い。
 そんなことを実行していたとは露知らず、真琴は祐一が何故ここにいるのか懸命に考えていた。
 知らない間に部屋に入られていたことは数度ある。だが、ここに居続けたというのはそれほどない。真琴が祐一に用事があるときは大抵祐一の部屋でことを済ますからだ。滅多に真琴の部屋で何かをしようということはない。
 だからこそ新鮮だった。こうして寄り添うように先程まで一緒に寝ていたという事実に。
 考えるのをやめ、祐一の顔を凝視する。
 真琴は祐一以外の異性とはあまり接触を行っていないため、なんともいえないが、それでも彼が魅力的な顔をしていることはわかる。別に誰も彼もが振り返るといったものではない。もしかしたら自分が好きになってしまったからこその見方なのかもしれない。別にそれでも良かった。事実だから。
「あぅー! 起こしてくれたっていいじゃないのよ!」
 軽く頭を小突いてみる。彼が彼女にいつもしているような強さで。
 だが、全く効いていないようで反応は無きに等しい。それが更に真琴の怒りを誘う。
「こうしてやるんだからっ!」
 片頬を掴んで引っ張ったり伸ばしたり、上下左右に回転、様々な方向や行動を行ってみる。
 隣にいるぴろも何やら楽しそうである。どんな行為なのか猫は知るはずもないのだが。
 さすがの祐一も痛かったらしく少し顔を顰めた。
 起きるか、と危機感に襲われた真琴は即座に持っていた指を全て離す。
 だがその心配は杞憂となる。寝返りをうち、仰向けになるが変わらず寝息を立てて寝ている。
 安心するのも束の間、今度は祐一が構ってくれないことに寂しさを感じてくる。
 相沢祐一。
 最初は何らかの衝動で憎む相手として見ていた青年。しかし、それは全く正反対の感情へと移り変わっていく。
 記憶喪失である自分を疑いもした、からかいもした、喧嘩もした、怒りもした。そんな青年をいつしか心の奥底で信頼していったのだ。そして次の段階へ。

 ―――こら、暴れるなってばぁ。
 ―――真琴。ほら、ちりんちりん、ってな。

 記憶を呼び戻す。
 以前の自分、今までの自分。
 そこで色々な“相沢祐一”に会ってきた。
 そして。

 ―――おかえり、真琴。

 今からの自分、これからの“相沢祐一”との関わり。
 たくさん助けてもらった。たくさん愛してもらった。たくさん、たくさんかけがえのないものを与えてくれた。
 今からはその恩返し。
 相沢祐一のために生きて、相沢祐一のために尽くしてみたい。
 何度も挫折やら憤慨をするだろう。それが彼と付き合うに重要な代償である。
 まあ、とりあえず今は。
「ぁぅ、眠い……」
 どうやら完全には起きていないらしく、むしろ祐一がここにいることに安心感を抱いてしまったようだ。
 そしてまた春の陽気に触れて、目がとろんと落ちていく。
 抗おうという気持ちはなく、別に起きていようという気持ちもなかった。だから自然と瞳を閉じていく。
 横になり、顔をまた窓のほうに向けようとして、止めた。反対を向き祐一がいる方向へと体を向ける。
 先程寝返りしてしまったのが惜しかった。もしあのままであれば、向き合ったまま寝ていられたのに、と。
「ん…………」
 しかし悔やむ暇なく、眠気は襲ってくる。
 とりあえずの対策として、
 ――――ぎゅっ。
 服を掴むことで対処。
 どうやらそれで安心したらしく、真琴の顔には笑みが浮かぶ。更に出来る限り体を彼に近づけ、距離を縮めていく。
 真琴が眠りについたときには彼女の顔は、祐一の脇腹辺りにあった。
 体を丸めて背中に日を浴びて寝転がり、欠伸をすることなく眠りについていく。
 なんとも平和な春の午後。
 真琴の部屋にはそんな二人と、所在なさげに鳴いているぴろだけがいた。









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