そこは、真っ白な世界だった
















 真琴が目を覚ますと、そこはうっかりものみの丘を想像させるススキの原の中にいた。
 ただし、そのススキは真っ白。無色ではない、白き野原の上に転がっていたのだ。
 最初自分に何が起こっているのか理解できなかった。
 呆然と空を眺め、ただ流されるままにそのススキの原に寝そべっていた。
 空は白。
 地は白。
 吐く息も白。
 吸う息も白。
 幻想的な世界に、真琴の頭はその時間の流れに逆らうことなく身を任せていた。
 途端に真琴の体が寒くなってきた。
 体ではない、内面から来る寒さ。それは、悲しみ。
 振り返っても白。
 上を見上げても白。
 そう、彼女は今、孤独。
「あぅ……」
 孤独は彼女を絶望へ導く。
 誰よりも孤独を知っている彼女は、その先にあることも理解できている。
 それが妖狐の記憶だということを彼女は思い出すことはない。
 ただなんとなく朧気に記憶が残っているだけ。
 孤独は、イヤ。
「……寒いよぅ」
 その内面の寒さはとうとう身体までも侵していく。
 真琴は両肩を抱き、遭難者の如く身を潜めている。
 丁度ススキは座ると彼女を覆い隠すまでの高さがある。
 すると自然とそのススキの一部となる。無色透明ではないススキは彼女を隠した。
 しかしそれは孤独を更に増す結果となる。ススキに囲まれた空間、それは密閉された部屋に近くなる。
 孤独を嫌う彼女にとればそこは牢獄のようになるのだ。
「あぅ〜……」
 声を上げるが悲しみが途切れるわけでもない。
 涙がこぼれそうになる。いっそこぼれてしまえばいい。
 そうすればこの胸の悲しみを少しは晴らせるだろうから。
「どうしたの?」
 その声は、彼女の頭上から聞こえた気がした。
 見上げるとそこには、小学生ぐらいの少女がいた。
 服は至って普通のシャツとスカート。白で統一されていて妙に清潔感が出てくる。
 白の少女は白の世界をバックに更に尋ねる。
「あれ、おねえちゃん。泣いてるの?」
 覗きこまれる彼女の行動に、真琴は体を引く。
 人見知りの激しい彼女にとれば、孤独を紛らわせた少女ですら出来れば近寄って欲しくない対象である。
 だけど離れてしまえばまた孤独になる、だが離れられれば……。
 そんな葛藤が真琴の心の中で行われていると、少女はふっと優しい笑顔になった。
「だいじょうぶだよ。わたしはおねえちゃんのみかただよ」
 その笑顔は終始自分に優しくしてくれた水瀬秋子の笑みに似ていた。
 誰の心も温かくさせる、そんな笑み。
「……味方?」
「そう、みかた」
 風が吹く。風がないと思っていた世界に風が吹く。
 ススキの原はその風の影響で流れ行く。
 絨毯のようだったススキの原は、その風で髪のような流れを出している。
 その高さは風によってススキを傾かせ、真琴の体を牢獄から開放させる。
「ようこそ、ススキノハラへ。エイエンなるキボウのせかいへ」
 ススキの原は彼女の言葉に応じるように、活発に動いていく。
「―――永遠なる希望?」
 不穏な言葉の羅列に真琴は眉間に皺を寄せる。
 ちなみに怪訝に思っているわけではなく、小難しい単語を出されたので理解できないのだ。
 気づくと不思議と弱々しかった気持ちが以前の強気な気持ちに変わっていく。
 そう、祐一と最初に出会ったあのときのような気持ち。
 そして思い出した。自分が何故此処にいるのか、ということに。
「祐一はっ!?」
 立ち上がり後ろを振り返るが、そこに広がるのは白きススキの原だけだ。
 そう、自分はあの時ものみの丘で祐一と擬似結婚式を挙げた後、彼の前から消滅したはずだ。
 その記憶は今も鮮明に残っている。
 自分に最後まで笑って迎えてくれ、最後には涙を浮かべてくれた秋子。
 最初は居候することに訝しく思っていたが、最後には自分を妹のように扱ってくれた名雪。
 多分最初で最後になる親友、美汐。
 そして、愛した彼。
 それらは此処に存在しない。わかっていることだが、やはり悲しい。
 では、此処は何処だ。
「天国、ってわけじゃないみたいね」
「てんごく、うん。ちかいかな。神様はいないけど」
 真琴は不思議に思う。
 少女に味方だと言われたときから、自分は人見知りを忘れたように祐一と出会うときの状態に戻っているのだ。
 あの水瀬家に迷惑をかけていた、あの真琴に。
「近い、ってどういうこと?」
 だからこんな質問も出来る。
 少女はうーん、と人差し指を顎につけて考えている姿勢をとる。
「ここはえいえんなるきぼう。つまりゆめをあつめるせかいなんだ」
「夢―――」
「そう、夢の世界。っていっちゃったらなんかメルヘンチックだね」
「世界の、夢?」
 逆にしただけなのだが、少女はそれに納得したようだ。
「うん。せかいのひとたちの夢をあつめたばしょ。そこが、ここ」
 そう言われても、夢なんて形のないものは真琴には見ることが出来ない。
 見えるのは真っ白な世界とススキの原だけ。
「夢は無色透明なものだっていったひとがいるんだ。見えないもので、誰も触ることが出来ない。自分だけが知ることが出来る、人間唯一にして最大の認知。それが夢だよ」
「……難しいのよ、あんた」
 頭が痛くなる。
「うん、わたしもよくわからない」
 てへへ、と笑いながら真琴の真似でもするように頭を抱える。
 多分本などの文献を齧っただけで、よく理解できていないのだろう。
 溜息をつきつつも、少し心が軽くなったのか話を聞く態勢になる。
「それで、どうして真琴が此処にいるのよぅ」
 背の低い少女に背を合わせる気はないらしく、彼女を見下すという疲れる態勢で訊く。
 すると少女はまるでそんな質問をするか、ときょとんとした顔で真琴を見る。
「だって、おねえちゃん。人間じゃないもん」
 やっぱりよくわからない。
「どうして、人間じゃないってわかるのよぅ」
「だって、おねえちゃんの夢が此処にないもん」
 矛盾していることはいくら真琴でも分かった。
 先程少女は夢を見えないもの、また触ることが出来ないものだと言った。
 ならばどうやって少女はその夢を見ることが出来るのだ。いや、それだけではない。
 どうしてそれだけで真琴を人間じゃないと判断できるのか。
「ここは、そういうモノが来るばしょだから」
 少女は少女らしからぬ何かを悟った笑顔を表面に出した。
「人ではない人。妖狐、それがおねえちゃんじゃないの?」
「―――――」
 絶句するしかなかった。
 此処がそういう場所というのにはまだ納得いかないが、言ってもいないのに自分を妖狐と言い当てたのには素直に驚いた。
 真琴が妖狐と認識したかという問いに今答えるならば、彼女は「当たり前じゃないっ」と言うのだろう。
 そこまで彼女は浅はかじゃない。失われた記憶は徐々にだが思い出しているのだ。
「……で、真琴をどうするつもりよ」
 自分を妖狐と言い当てた少女に警戒心を抱く。
 だが少女はそれに臆することもなく、笑ってそれに答えた。
「夢を、作るんだよ」
 今度こそ言葉を失った。
 よくわからない、その言葉が頭を埋め尽くす。
「夢は人間がもつことができる唯一のもの。けどおねえちゃんみたいなモノは"ふかんぜん"だから夢はつむげないんだ。おねえちゃんは言ってしまえば人間に化けた狐なんだから」
 少女は童話での例えを出したのだろうが、それは真琴にぴったり当てはまった。
 それくらい真琴でもわかっている。
 自分はただ人間の振りをしていた別のモノ。本来はそこにいてはいけないモノ。
「それが夢を作るのと、どう繋がるのよぅ……まどろっこしいことしないではっきり言いなさいよっ!」
 真琴がそう言うと、ふっと笑顔は悲しみを含めたものになる。


「それが、死にゆくモノにわたしが出来ることだから」


 頭に何かが落ちたような衝撃が来た。
 真琴は自身を"消滅した"と思っていた。だが現実からすれば"死"だ。
 死ほど恐ろしいものはない。それは人間であれ動物であれ、確実に訪れるもので逃げられないもの。
 死の先は未知。
 真琴は多分その未知の手前、まるで天国か地獄かを決める閻魔大王の前にいるような感じ。
 そうだ、自分は考えてもみなかったが。自分は"死"んだのだ。
 そう思うと段々悲しくなってくる。前の見えない自分の先。そして、会えなくなる人。
「……あぅ」
 祐一。相沢、祐一。
 憎む対象。自分の道標。自分を捨てた少年。自分を愛した少年。
 そして、自分が愛した少年。
 真琴にとって太陽のような笑顔はもう見ることがない。
 絶望。
 望みを絶つ、と書く。
「おねえちゃんの夢はわたしが責任を持ってかなえるよ。例を挙げるとね、以前ここに来たモノは、自分を愛してくれた人間へ自分の代わりとなる友達を、だったよ。もちろんかなえてあげたかったんだけど、その人間が……ね」
 そんなこと耳に届かない。
 ただ、自分を愛してくれた人間という単語だけには耳を傾けたが。
「おねえちゃんも残した人たちになにかねがいごととかあるかな? かなえられる範囲ならわたしがかなえてあげるよ。それも夢には違いないからね」
 その言葉を聞いて、真琴は真っ白な空を仰いだ。
 この空間の空もあの地に繋がっているのだろうか。もし繋がっているなら、
「祐一は、この空を見ているかなぁ……」
 紡いだ言葉は空間に吸い込まれるように消えていった。
 一旦目を瞑った後、真琴は口を開く。
「まだ信じられないけどね。夢を言うだけなら、ただよ」
 続けて、
「真琴は皆に―――」


 ―――幸せになって欲しい。


 とは言えなかった。
 それだけ? それだけで夢は終わり?
「? どうしたの、おねえちゃん」
 首を傾げて少女は真琴を見る。
 そこには、涙を流す天使がいた。
 幸せ、って何だろう。
「……真琴は、幸せになれないの……」
 死。自分は死んだ。多分地上ではそれだけで扱われるだろう。
 ならば死んだ後も幸せは望めないのだろうか。幸せになってはいけないのだろうか。
「真琴も、自分の幸せの夢を、見たいよぅ……」
 それは誰に言ったでもない。空に向かって泣きながら言っていた。
 少女はその言葉を聞き、すっと目を細めて彼女を見ていた。
「おねえちゃんは生きたいの?」
 真琴は首を横に振る。
「おねえちゃんは死にたいの?」
 更に振る。
「真琴は、夢でもいいから……幸せでいたい」
 それは望む夢ではなく、眠ることによる夢。
 真琴は誰かを抱くように肩を抱く。
「祐一と一緒に、そんな夢を見ていたい」
 それが夢。望んでも、望んでも多分二度と届かないだろう夢。
 真琴はそれを望む。
 彼の笑顔を見ていたい。
 彼の全てを見ていたい。
 彼に抱かれてみたい。
 彼に小突かれたい。
 彼と一緒なら自分は何にだってなれたと思う。
 彼の全てを受け止めて、彼の全てを自分のものにしたい。
 抱きしめる肩を強く握る。
「……夢を、見たいよぅ」
 少女は細めていた目を、ゆっくり柔和なものに戻していく。
 それはまるで菩薩が人間を眺めているような、そんな錯覚を思わせる。
「おねえちゃんの夢は、それなんだね」
 今度は首を縦に振る。
「誰にもゆずれない、そんな夢なんだね」
 更に頷く。
 そして今、気づく。弱気に戻っていると。
 それを施したのも彼だろう。こんなに自分を弱くしたのも彼だろう。
 そうだ。夢に出てきたらまずぶん殴ってやろう。怒鳴り散らしてやるのだ。
 痛い止めろ、と言うまで止めない。
 それから、それから―――。
「それじゃあ、おねえちゃんの夢。かなえるよ」
 ススキノハラが揺れた。
 ススキが、風が、地球のあらゆる法則を無視して少女に向かって流れていく。
 真琴は思わず涙を拭くのも忘れて、それを腕で防ぎながら少女を見た。
「おねえちゃんの夢。誰にもゆずれない夢。大切な、そしてじゅんすいな夢」
 少女は満面の笑みを浮かべる。
「おねえちゃんはりっぱな人間だよ。自分のおもいをそっちょくに言える。そして愛する人のために……」
 少女が消える。
 いや、自分が消えているのか。
 徐々に自分の存在が消えるのを感じる。だが祐一の前で消えたときのような寂しさはない。
 だって目の前に立っている存在には悲しみの表情が含まれていないから。暖かく見守る、誰かの顔が合ったから。
「―――あなた、名前は?」
 そういえば少女の名前を聞いていない。
 だが、彼女が向けてくれたのは微笑みと、
「おやすみ、おねえちゃん」
 その言葉。












「ご苦労様」
 声が後ろで聞こえた。
 振り返るとそこには本当の天使がいた。
「ごめんね。我侭聞いてもらっちゃって」
「ううん、いいよ。わたしもたのしかったから!」
 天使は子供のような笑みを浮かべると、少女の頭を撫でた。
 そしてふっと寂しい顔になる。
「キミの殻には、残念だけどね」
 だが、その言葉に少女は笑って返す。
「仕方ないよ。それに、それはおねえちゃんも"どうるい"だよ?」
「―――そうだね」
 天使は白いワンピースを翻して、少女に背を向ける。
 そして翼が一気に広げられた。その翼は大きく、少女の姿を覆い隠すくらいあった。
「それじゃあ、ボクも"おやすみ"しなきゃね。殻はもう動かないから」
 その悲しげな表情は少女の心を少し痛めた。
「ねぇ、おねえちゃんはどうしてあのおねえちゃんを"覚まそう"と思ったの?」
「だって、」
 振り返って見えたのは、天使の涙。
「―――大好きな人には、笑ってほしいから」
 それは真琴ではない。真琴が愛した、あの少年。
 自分もあの笑顔に救われた。
 出来るなら自分がそれを奪いたかった。
 だがしかし、運命はそれを拒み、彼女を選んだ。
「神様を恨みたかったよ」
「てんしさんの言うことじゃないね」
 クスクスと笑う少女に言い返すことが出来ない。
 いくら人間のときの愚痴だとしても、神に聞かれては多分自分の身が危ない。
 さぁ、と気分を切り替えて天使は羽を広げる。
「それじゃあ……さよなら、だね」
「そう、だね。おねえちゃんの夢は終わっちゃったから」
 うん、と天使は頷くとふわっと空中に浮く。
 白き世界は白い服の白い羽を持った少女を隠すように空間を作っていく。
 ただ、違うのは彼女の髪を止めている赤いカチューシャ。
 それだけはこの世界の異色として目立っていた。
 そのカチューシャを外して、両手に掬うようにして持つ。
 壊れ物を扱うような、そんな繊細な持ち方をしている。
 天使は消えていった真琴の場所を見る。もう既に彼女の姿はない。
 今頃、夢と現実の境目を彷徨っているかもしれない。
 それを羨ましいのと嬉しいのを混合した笑みを浮かべて、再びカチューシャを見る。
「ばいばい、祐一くん」
 そして、天使は天に還った。
 羽を広げて、真琴と同じようにその存在を消していった。
 残ったのは白い羽と、赤い、カチューシャ。
 それを拾って少女は白い空を眺める。
「大切なおもいで―――」
 ススキが凪ぎ、少女の姿を無理矢理隠すかのように周囲を囲む。
 次の瞬間、ススキから出てきたのはウサギの耳が生えた少女だった。
「それは、忘れちゃいけないよ」
 ススキがまた揺れた瞬間、何処かで鈴の音が聞こえた気がした。












 真琴が再び目覚めると、そこは色彩が出ている世界だった。
 先程いたススキノハラではなく、むしろ地上に近い。
 寝そべっているのもススキの原ではなくて、緑の草の上。
 風の匂いにその緑色が加わる。久しぶりに嗅いだ気がする自然の匂い。
「んぅ……」
 寝ぼけているようで、目を擦りながら起き上がる。
 思わず欠伸までもしてしまう。そこまで気持ちよく"寝ていた"のだろうか。
 だけど、これは夢、か。
「あぅ?」
 けど少し違う感覚がある。
「夢の中で夢を見る。……けど、この感覚って」
 立ち上がると、何かが自分の足に触られた。
 驚いて声も出せずにそちらを向くと、
「……ぴろ?」
 見覚えのある猫がそこにいた。
 しゃがんでそれを見るが、どこをどう見てもぴろにしか見えない。
 それは外見からしても、雰囲気からしても。
 思わず嬉しくて、ぴろを抱く。うなー、と妙な泣き声がするがそれすらも懐かしい。
 頬擦りをするとぴろもそれに対応してくれる。
 まるで親友にでも再会したような対応。
 ふと、ぴろは真琴の腕から抜け出して何処かへ走り出す。
 その素早さに驚いて、もしかしてイヤだったのかと不安に思うがぴろは少し走ると、真琴の方を見てきた。
 まるで、ついてこいと言わんばかりに。
「そっち?」
 もしかして、と思った。
 そう思うといてもたってもいられず、走り出す。
 それでもぴろには追いつくことは出来ず、改めて野生の凄さに驚く。
 緑の風を一身に浴びながら、喜びを隠し切れず、まだ決まっていないのに頬を緩ます。
 夢でもいい。夢でも見たい。
 そして、開けた世界。
 そこはものみの丘と呼ばれた場所。そこに似ていた。
 息が少し荒れる。
 だがぴろはもう自分の任務は終わったとでも言いたいのか、もうその場にはいない。
 だから真琴も探そうとは思わない。自分の目指す先はそこだからだ。
「はぁ―――」
 顔を上げて、そこを見る。
 大きな木。そこの幹にぽつんと一つの影が見つかった。
 早まる鼓動を抑えて、一歩一歩緑を踏みしめながら近づく。
 最初はまだ人影としかわからなかった姿が、徐々に確実なものになっていく。
 やはり、彼だった。
 しかも生意気に寝息などをたてて、幹を背にして寝ているではないか。
 その姿に腹が立ってくる。嬉しいのに腹が立ってくる。
「あぅーっ!」
 その安心しきった眠りを、安らかな眠りにしてやろう、とか。
 その一目見て可愛いと思ってしまう顔を、どんな顔に変形してやろう、とか。
 色々考えたけど、とりあえず。
 拳を振り上げることにした。
 高く高く、天まで伸びて欲しい自分の腕。
 そして思いっきり頭を殴ってやるのだ。
 自分をこんなに悲しくさせた、弱くさせた人物を。
 その、瞬間だった。
「おかえり」
 その声が聞こえたのは。
 拳を振り上げたまま、真琴は止まる。
 そこから時間が流れるだけで動きはない。先程の声も嘘ではないかと錯覚させるほどの長さ。
 だが、もう一度彼は言った。
「おかえり、真琴」
 それが限界だった。
 振り上げた拳は力なく落ちる。
 そして見えた。彼がこちらを向いて笑っている姿を。
 優しく出迎えてくれるその笑顔。
 その笑顔が心を占めていく。心から溢れるようなその笑顔。
 やっぱり、自分は彼が好きなんだ。
 愛している。離したくない。もう、消えたりしない。
 涙が出てきて、彼の姿がぼやけて見える。
 姿が見えなくなるそれすらも、彼女を苛々させる。
 涙を拭いて、一度目を瞑ってまた彼を見る。
 幻想ではない。幻覚ではない。
 いつもの笑顔で祐一は真琴を迎える。
「あ、あ、あ、」
 言葉が紡げない。
 だけどそれすらも彼は包んでくれる。許してくれる。
 それで十分だ。
 地を蹴って、彼の胸に飛び込む。
 彼はよけたりせず、まるで空気でも抱きしめるようにふわっと真琴を包み込んだ。
「ほら、真琴。俺はおかえりって言ったんだぞ。お前は何ていうんだ?」
 彼はそっと耳元でそう言った。
 真琴だけに伝わるように、他の誰にもこの場を邪魔されないように。
 彼女がそれを感じたかはわからないが、ただ「あぅ……うん」と言って彼の服をぎゅっと握った。
 そして彼の胸元で泣いていた顔を上げて、ふっと笑った。
 その笑顔は太陽のように明るかった。
 彼女の性格のような、明るい。そんな―――
「ただいまっ!」
















そこは、色が溢れる夢の世界

この世界は現実なのか幻なのか

彼女には関係ない

何故なら

こんなに、幸せなのだから

















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